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    <title>教会だより</title>
    <link>http://oguchurch.sblo.jp/</link>
    <description>東京都荒川区、尾久キリスト教会の牧師です。http://oguchurch.sakura.ne.jp/教会の日々の歩みをジャーナル風に綴ります。時には牧師による心がほっこりする『ひと言メッセージ』も掲載します。随時更新いたしますので、乞うご期待！</description>
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    <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs>
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    <itunes:summary>東京都荒川区、尾久キリスト教会の牧師です。 http://oguchurch.sakura.ne.jp/ 教会の日々の歩みをジャーナル風に綴ります。時には牧師による心がほっこりする 『ひと言メッセージ』も掲載します。随時更新いたしますので、乞うご期待！</itunes:summary>
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    <itunes:author>take</itunes:author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191763504.html</link>
      <title>マタイによる福音書第7章13節～19節「見過ごされる門」</title>
      <pubDate>Wed, 05 Aug 2026 22:07:25 +0900</pubDate>
      <description> 「狭き門」と聞いて、私たちは何を思い浮かべるだろうか。昭和の時代には、大学受験で有名大学に現役で合格することは非常に難しく、「狭き門」と呼ばれた。現在では少子高齢化の影響で以前より競争が緩和された面もあるが、超難関校への道が険しいことに変わりはない。　しかし、イエスが語られた「狭き門」とは、人との競争に勝ち抜いて入る門ではない。それは、多くの人が目を向けず、見過ごしてしまう門のことである。　イエスは「広い門」は滅びに通じると言われた。多くの人は、その門を通っていく。人は皆と..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;"> 「狭き門」と聞いて、私たちは何を思い浮かべるだろうか。昭和の時代には、大学受験で有名大学に現役で合格することは非常に難しく、「狭き門」と呼ばれた。現在では少子高齢化の影響で以前より競争が緩和された面もあるが、超難関校への道が険しいことに変わりはない。<br />　しかし、イエスが語られた「狭き門」とは、人との競争に勝ち抜いて入る門ではない。それは、多くの人が目を向けず、見過ごしてしまう門のことである。<br />　イエスは「広い門」は滅びに通じると言われた。多くの人は、その門を通っていく。人は皆と同じ行動を取ることで安心する。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という有名なジョークがあるが、実際には大変危険なことである。このように周囲に流されやすい傾向は、私たち日本人に強く見られる。<br />　人は成功を願い、成功するように祈る。しかし、成功は時として人を高慢にする。一方で、挫折は自分の限界を教え、謙遜の心を与え、他者を思いやる者へと変えていく。そして、その中で人は神を求めるようになる。もちろん、わざと失敗する必要はない。しかし、命に至る門は決して広くはない。この世の栄光や価値に執着することこそ、滅びへの道となるのである。<br />　水野源三という詩人がいた。幼少期に赤痢にかかり、その後、脳性麻痺となって長野県の山間部で暮らした。しかし彼は「瞬きの詩人」と呼ばれ、苦しみの中にある喜び、病の中にある神への感謝を詩に表した。<br /><br />悲しみよ悲しみよ<br />本当にありがとう<br />お前が来なかったら<br />強くなかったなら<br />私は今どうなったか<br /><br />悲しみよ悲しみよ<br />お前が私を<br />この世にはない<br />大きな喜びが<br />変わらない平安がある<br />主イエス様のみもとに<br />連れて来てくれたのだ<br /><br />　ヨハネによる福音書第10章9節には、「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」と記されている。また第14章6節では、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」とイエスは語られている。<br />　つまり、イエスこそが門であり、道であり、父なる神へと通じる命そのものである。そう、イエス・キリストこそが「狭き門」なのである。<br />　イエスは、この世で誰もが憧れるような生き方をされた方ではない。ビル・ゲイツのようにビジネスで成功したわけでもなく、大谷翔平のようにスポーツで名声を得たわけでもない。それどころか、十字架にかけられ、処刑された。世の価値観から見れば、敗北者、負け組と見られる人生だったかもしれない。<br />　しかし、イエスは復活によって死に勝利された。そして私たちは、その十字架と復活によって罪を赦され、永遠の命への道を与えられたのである。<br />　13節までは「狭き門」というテーマが語られているが、15節からは「偽預言者」という新たなテーマへ移っていく。偽預言者とは、神の名を語りながら偽りを教える者である。「羊の皮を被った強欲な狼」とは、私たちを滅びへと向かう広い門へ導く存在である。<br />　20節以降では「実によって木を知る」という教えが続くが、これは偽預言者を見分けることにもつながっている。<br />　21世紀の私たちの周囲にも、さまざまな声があふれている。テレビ、新聞、雑誌、インターネット、SNSなどを通して、世間の声、有名人の言葉、占いなど、多くの情報が私たちに入り込んでくる。その中には、「物やお金こそが人生のすべてである」という価値観へ私たちを導くものもある。<br />　私たちは、聞いたことをそのまま受け入れるのではなく、自分自身で考え、真実を見極めなければならない。その判断の基準となるのが「実」である。実とは、その人の人格、生き方、教えによって生み出される結果である。<br />　イエス・キリストこそ、真実の木であり、そこに実る命の実である。私たちはその御前に立ち、自らの歩みを振り返り、悔い改めながら、命へ至る狭き門を歩んでいく者でありたい。<br /><br /></span><a name="more"></a>

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            <category>日記</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191742419.html</link>
      <title>「創世記」第33章12～20節「ゆっくり参ります」</title>
      <pubDate>Thu, 09 Jul 2026 19:26:32 +0900</pubDate>
      <description>尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による2026年7月5日の説教です。この日の箇所は「創世記」第33章12～20節「ゆっくり参ります」。「タイパ」という言葉が、よく使われています。これはタイムパフォーマンス、つまり時間効率を略した言葉です。「短い時間で、どれだけのものを得られるか」という価値観です。例えばスーパーでレジの長い列に並ぶより、セルフレジで手早く済ませる。映画館で２時間の映画を観るより、YouTubeで10分の予告編だけ観る。子どもたちも毎日の習い事で、用事の入っていな..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;">尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による2026年7月5日の説教です。この日の箇所は「創世記」第33章12～20節「ゆっくり参ります」。<br /><br />「タイパ」という言葉が、よく使われています。これはタイムパフォーマンス、つまり時間効率を略した言葉です。「短い時間で、どれだけのものを得られるか」という価値観です。例えばスーパーでレジの長い列に並ぶより、セルフレジで手早く済ませる。映画館で２時間の映画を観るより、YouTubeで10分の予告編だけ観る。子どもたちも毎日の習い事で、用事の入っていない日はありません。このような生活をしていると大切な何かを失うのではないでしょうか。<br /><br />　兄エサウとの再会前に、ヤコブはペヌエルで神と向き合い、砕かれました。そうして、この兄弟はついに和解に至ったのです。再会の後、エサウはヤコブに一緒に行こうと誘います。その時、ヤコブは自らをしもべと呼び、エサウをご主人様と呼びました。ご主人様という呼称は、兄上さまと呼ぶのに等しいでしょう。そして、ヤコブは「ゆっくり参ります」と、兄エサウに伝えたのです。これまでのヤコブは生き急ぐ人生を送っていました。しかし、神との格闘で股関節が外れたことによって、自分自身もゆっくりとしか歩けなくなりました。これは神からヤコブへの「待った」であったと言えるでしょう。<br /><br />　哲学者のダラス・ウィラードは「霊的生活における最大の障害は急ぐことである」と言いました。また、あるカトリック信徒は、神父さんから「急ぐことは悪魔ですよ」と言われて、衝撃を受けたそうです。急ぐ時は、何かを犠牲にしています。子どもの話し、友人の悩み、家族の介護、毎日の祈り、聖書の言葉を味わう機会、家族と囲む食卓など大切なことをついつい怠り勝ちになるのです。聖歌355番「主と共に歩む」の歌詞には「一足、一足、主にすがりつつ」とあります。<br /><br />　15節では、エサウはヤコブに自分の部下を何人かヤコブの旅の助けとして残そうかと提案します。しかしヤコブはそれを丁寧に断り、ふたりはそれぞれ別の道に進みます。エサウはセイルに、ヤコブはスコトへと。『和解＝いつでも一緒にいる』ではなく、お互いを尊重しつつも適切な距離を取ることが人生の智恵でしょう。ただ35章で父イサクが亡くなった時には兄弟で葬っていますので、兄弟の交わりは続いたのです。<br /><br />　長老教会の牧師である古川第一郎先生は、フレデリック・パールズの詩「ゲシュタルトの祈り」を紹介しました。さる鬱病の患者さんは、この詩を読んで、病が治ったそうです。ここでは古川先生がご自分なりにアレンジしたヴァージョンで紹介します。<br /><br />『私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。私は、あなたの期待に答えるために、この世にいるのではない。あなたも、私の期待に答えるために、この世にいるのではない。あなたはあなた。私は私。もしも我々が、お互いの期待に答えることができたなら、そりゃあ、すばらしいことだ。しかし、それができなかったとしても 我々がよい友達であることに変わりはない。』<br /><br />　18節では、ヤコブがカナンの地に帰ったことについて「無事に」という表現が使われています。思えばヤコブの人生は、すったもんだの連続でした。でも、神はヤコブを見捨てることなく、ずっと一緒にいてくださったのです。私たちの生涯も同じでしょう。『もうダメだ』と幾度も思ったかもしれません。それでも、神の守りと導きが確かにあったのです。本日は月の第一聖日ですので、聖餐式をとり行います。聖餐は「ユーカリスト」とも言われますが、元々はギリシャ語からきた言葉で神への感謝を表わします。それはイエスの十字架の死と復活によって、私たちに永遠の生命が与えられた感謝に他なりません。そればかりか、復活の主は私たちと共に歩み、今日まで無事、守り導いてくださいました。感謝しつつ、聖餐にあずかりましょう。</span><br /><br /><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191650219.html</link>
      <title>創世記第16章1〜16節「神は見てくださる。聞いてくださる」</title>
      <pubDate>Wed, 11 Mar 2026 19:42:40 +0900</pubDate>
      <description>尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による４月28日の説教。この日の聖書箇所は創世記第16章1〜16節「神は見てくださる。聞いてくださる」。渡辺和子さんの著書に『置かれた場所で咲きなさい』という本があります。この言葉は、もともと宣教師から贈られた詩に由来し、「神が植えた場所で咲きなさい」という意味を持つ言葉だそうです。神が与えてくださった場所で、自分の花を咲かせる――そんな生き方を思い起こさせてくれる言葉です。旧約聖書には、アブラハムの妻サライと、その召使いハガルの物語があります。..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;">尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による４月28日の説教。この日の聖書箇所は創世記第16章1〜16節「神は見てくださる。聞いてくださる」。<br /><br />渡辺和子さんの著書に『置かれた場所で咲きなさい』という本があります。この言葉は、もともと宣教師から贈られた詩に由来し、「神が植えた場所で咲きなさい」という意味を持つ言葉だそうです。神が与えてくださった場所で、自分の花を咲かせる――そんな生き方を思い起こさせてくれる言葉です。<br /><br />旧約聖書には、アブラハムの妻サライと、その召使いハガルの物語があります。子どもに恵まれなかったサライは、エジプト人の召使いハガルを夫アブラハムに与え、子をもうけるよう勧めました。当時としては珍しくない習慣でしたが、やがてハガルは身ごもると主人サライを見下すようになり、二人の関係は険悪になってしまいます。怒ったサライはハガルを厳しく扱い、ついにハガルは耐えられなくなって荒れ野へ逃げ出しました。<br /><br />その荒れ野で、神の御使いがハガルに現れます。「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。ハガルは、自分がどこから来たのかは答えられましたが、どこへ行こうとしているのかは答えることができませんでした。すると御使いは、「主人サライのもとに戻り、へりくだって仕えなさい」と告げます。身重のハガルにとって、荒れ野をさまようことはあまりにも危険でした。焦って決断するのではなく、今いる場所に戻ることが必要だったのです。<br /><br />新約聖書でも、神の御使いはヨセフに「私が告げるまで、そこにいなさい」と語ります。神の導きがあるときに動けばよいのです。そうでないときには、慌てて決断せず、今与えられている場所にとどまること。それもまた大切な知恵なのでしょう。<br /><br />この出来事では、ハガルの驕りにも問題がありましたが、サライの態度にも決して小さくない問題がありました。しかし御使いは、他の人のことには触れず、ハガルに「あなたはどうするか」を示します。大切なのは、誰かがどうであるかではなく、神の前でこの私がどう生きるかということなのです。<br /><br />さらに御使いはハガルに祝福の言葉を告げます。「あなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの苦しみを聞かれたからである」。イシュマエルとは「神は聞いてくださる」という意味です。エジプトから連れて来られ、召使いとして苦労していたハガルの叫びを、神は確かに聞いておられました。<br /><br />神は、私たちの歩みも見ておられます。そして、苦しみの中での祈りを聞いてくださるお方です。だからこそ私たちも、この神に信頼しながら、「どうか助けてください」と祈りつつ、与えられた場所で歩んでいきたいと思います。</span><br /> <br /><br /><a name="more"></a>

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            <category>日記</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191563293.html</link>
      <title>コリントの信徒への手紙一 第15章12〜28節「キリストの復活と私たちの復活」。</title>
      <pubDate>Sun, 07 Dec 2025 00:11:48 +0900</pubDate>
      <description>4月21日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日のテーマは、コリントの信徒への手紙一 第15章12〜28節より、「キリストの復活と私たちの復活」。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は無意味なものとなり、あなたがたは今もなお罪の中にいることになる」 （17節）。ここで言う「無意味」とは、復活がなければ、イエスは死なれただけの存在となり、結局は悪の勝利になってしまうということ。しかし、イエスは復活されたので、ご自身が神の御子であり、救い主であ..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;">4月21日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日のテーマは、コリントの信徒への手紙一 第15章12〜28節より、「キリストの復活と私たちの復活」。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は無意味なものとなり、あなたがたは今もなお罪の中にいることになる」 （17節）。ここで言う「無意味」とは、復活がなければ、イエスは死なれただけの存在となり、結局は悪の勝利になってしまうということ。しかし、イエスは復活されたので、ご自身が神の御子であり、救い主であることが示された。<br /><br />説教の中で紹介された、あるキリスト教系の大学でのエピソード キャンパスで守衛さんが聖書を読んでいると、通りかかった聖書科の教授が「どこを読んでいるのですか？」と尋ねた。守衛さんが 「ヨハネの黙示録です」と答えると、教授は「難しい箇所ですね。読んでいてわかりますか？」と。すると、守衛さんは「はい、わかります！最後にはイエス様が勝つと書いてあります」と答えたという。これが聖書のメッセージの核心である。最後には、キリストが勝つ。それだから、命が死に、光が闇に、愛が憎しみに勝利する。振り返ってみると、アダムとエバの罪によって人は死ぬ運命にあったが、キリストの十字架と復活によって、私たちは罪ゆるされ、死に打ち勝つ者とさせられた。神はこのキリストを信じる者に、死をも乗り越える永遠の命を与えると聖書は語る。 「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました」 （20節）。『初穂』とは、畑にできた最初の収穫物のことで、イスラエルでは神への捧げ物や収穫の前兆とされてきた。リビングバイブルではこの節をわかりやすく、次のように訳す。「しかし事実、キリストさまは死人の中から復活しました。そして、復活が約束されている何千万何百万もの人の、復活第一号となられたのです」。キリストは復活第一号！そして、信じる私たちも、このお方に続くのである。<br /><br />また、説教では、数年前の小学生キャンプの思い出も語られた。ある少年が羽化寸前の蝉の幼虫を捕まえ、その決定的な瞬間を見守った。蝉の幼虫の抜け殻はよく見かけるが、羽化の瞬間を間近で見ることは稀。子どもたちも大人たちも息をつめて見守り、羽化を終えた蝉が飛び立つ姿に感動した。地中で暮らす幼虫と、羽化して青空を飛び回る成虫。まるで別世界に生きる生物であるが、両者には確かに『連続性』がある。私たちも今はこの世の命を生きている。しかし、やがてキリストの再臨と御国の到来によって、復活の命と復活の体をいただく時が来る。その時、羽化した蝉が自由に青空を飛び回るように、私たちもこの世の痛みや苦しみから全く解放される。キリストの死と復活によって、信じる私たちにも永遠の命の希望が与えられていることを覚えたい。<br /></span><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191513263.html</link>
      <title>ヨハネによる福音書第20章24〜29節「長所と短所は紙一重」</title>
      <pubDate>Sat, 11 Oct 2025 08:59:48 +0900</pubDate>
      <description>2024年4月14日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はヨハネによる福音書第20章24〜29節「長所と短所は紙一重」。人の性格は十人十色である。そして長所と短所は紙一重、長所が短所でもあり、短所が長所でもあり得る。せっかちな人は決断が早く、頑固な人は信念があり、面倒くさがりな人は合理的で、優柔不断な人は慎重で、協調性のない人は主体性に富み、飽きっぽい人は好奇心が旺盛である。キリストの弟子たちの中でも、トマスは疑り深い人であったと言われる。彼はイエスが復活し..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;">2024年4月14日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はヨハネによる福音書第20章24〜29節「長所と短所は紙一重」。<br /><br />人の性格は十人十色である。そして長所と短所は紙一重、長所が短所でもあり、短所が長所でもあり得る。せっかちな人は決断が早く、頑固な人は信念があり、面倒くさがりな人は合理的で、優柔不断な人は慎重で、協調性のない人は主体性に富み、飽きっぽい人は好奇心が旺盛である。キリストの弟子たちの中でも、トマスは疑り深い人であったと言われる。彼はイエスが復活して弟子たちと再会した際、一人だけ不在だった。主の復活を語る弟子たちに「復活などあり得ない」と反駁。25節では、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」と言っている。「決して信じない」とは強い言葉である。<br /><br /> しかし、トマスは本音では主の復活を望んでいたのだろう。イエスが十字架につけられる直前、これからエルサレムへ向かおうというとき、彼は「共に死のう」と他の弟子たちに呼びかけたくらいだ。彼のイエスを思う気持ちは本物である。「よみがえられた」という仲間たちの言葉を信じたい。信じたいけど、信じられない。そんな葛藤の中にあったのではないか。ただ、トマスは他の弟子たちに対して、適当に話しを合わすタイプではなかった。何かを信じるには、それなりの根拠や理由が彼には必要なのだ。ただ、それでもトマスは他の弟子たちに対してその時点で見切りをつけることはなかった。言わば、彼らとの交わりを保ちつつ、共に主を待ち望んだと言えよう。<br /><br />ある精神科医によれば「脳はスッキリわかりたい」とのこと。これによると、人間は人生の難題を前にすると、安易な解決や結論を求めがちになる。しかし、真に大切なこと、深遠なことは、そう簡単にわかるものではない。従って人は『 宙ぶらりん』の状態に耐える力が必要になる。これをネガティヴ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)と言う。私たちの信仰の歩みにもこのような一面が確かにある。すぐに答えは見つからない。すぐに解決には至らない。モヤモヤとした宙ぶらりんな状態に時には耐えなければならない。スッキリしたいけど、スッキリしない。それでも、私たちの信じる神はよいお方で、私たちによくしてくださる。やがて時が来れば、神の幸いな御業がなされる。そのように信じて、時には 宙ぶらりん』に耐えることも必要である。トマスは復活のイエスと出会うまでの日々、まさにネガティブ・ケイパビリティをもって待ち望んだと言えよう。<br /><br />弟子たちにお姿を現してから1週間後、今度はトマスも一緒の時、イエスは再び彼らに出会われた。まさにこのとき主はトマス一人のために来てくださったと言えよう。このとき、トマスはイエスの前で「私の主、私の神よ」と告白している（28節）。何と素晴らしく、貴重な信仰告白だろう。トマスのように注意深く、物事を現実的かつ総合的に考える人は、信じるのに少々時間がかかるかもしれない。でも、ひとたび信じたら、その信仰はそう簡単には揺るがない。伝説によると、トマスは後にインドにまで旅をしてキリストの救いをのべ伝えたという。疑い深いと言われたトマスだが、ひとたび従う決心をしてからは、どこまでも主についていった。その服従に妥協は全くなかった。このように、トマスの短所は長所でもあった。人の性格は十人十色だが、イエスはそれぞれに相応しいやり方でその人の歩みを導いてくださるのである。<br /><br /></span><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191415372.html</link>
      <title>「マタイによる福音書」第6章9〜15節「主の祈り④御心が行われますように」</title>
      <pubDate>Fri, 11 Jul 2025 17:58:05 +0900</pubDate>
      <description>  7月6日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生による説教。聖書箇所はマタイによる福音書第6章9〜15節。タイトルは「主の祈り④御心が行われますように」。　「主の祈り」はキリストが弟子たちに教えられた祈り。その中で、今日取り上げるのは10節の後半、「御心が行われますように 天におけるように地の上にも」。「御心」とは神の意志であり、その望みである。天とは神のおられるところ。言わば神の住まいであり、必ずしも空の上ではない。一方、地とは私たちのこの世界のこと。天は地とは別の領域、..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
  <span style="font-size:large;"><span style="font-size:large;">7月6日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生による説教。聖書箇所はマタイによる福音書第6章9〜15節。タイトルは「主の祈り④御心が行われますように」。<br /><br />　「主の祈り」はキリストが弟子たちに教えられた祈り。その中で、今日取り上げるのは10節の後半、「御心が行われますように 天におけるように地の上にも」。「御心」とは神の意志であり、その望みである。天とは神のおられるところ。言わば神の住まいであり、必ずしも空の上ではない。一方、地とは私たちのこの世界のこと。天は地とは別の領域、別の空間である。神、御子、天使の住まいがそこにある。天は今の私たちには目で見ることができない。しかし、天と地はそんなに離れているわけではない。それどころか、両者には接点があると言う人さえいる。そして、この節からわかることは、天では神の御心が行われているということ。しかし、地では必ずしも行われていない。だからこそ、御心が天で行われるように、地でも行われるようにと私たちは祈るのである。<br /><br />インターネットYahoo!知恵袋で「神がいるなら、なぜ戦争や殺人事件があるのですか？　神さまは止めないのですか？」という質問があった。簡単には答えられない問いだが、キリスト者の立場から言うと「世界に悪が蔓延っているのは、私たち人間の罪のため。人がつくり主なる神を無視して、自分の好む道を歩み始めたから」ということになる。いずれにしても、大切なのは、この世界では神の望まれることが必ずしも行われていない現実があること。それこそ、戦争があり、凶悪犯罪もある。この世では神の御心は必ずしも行われていない。だからこそ私たちは祈るのである。地においても天でと同じように、御心が行われるようにと。そして、祈りつつ行動する。キリスト者一人一人がこの祈りを真剣に祈り始めるなら、それこそ世界が変わるのではないか。私たちの生活が変わり、家庭が変わり、教会が変わる。世界は私たちの祈りを必要としている。主の祈りによって、神はこの世界を崩壊から守ってくださり、平和な社会の実現へと繋がっていく。<br /><br />　次に、神の御心が地で行われるためには、私たちが毎日の生活において御心を求めなければならない。私たちが神の御心を選び取ることである。私たちの毎日は選択の連続である。毎朝の起床でベル〓を止めるか止めないか、今日はどんな服装をするのかに始まり、選ばなければならないことがたくさんある。ある調査によると、成人は１日に３万5千回の選択をしているそうだ。それらの中には些細なものもあれば、人生を左右するような重要なものもあるだろう。自分の願いと神の御心が一致するなら、それは間違いのない選択である。しかし、時には自分の願いが、神の心と一致しないこともある。そんな時は、どうしたらいいのだろう？<br /><br />十字架の前夜、イエスはゲッセマネの園で、父なる神に向かって祈られた。マタイによる福音書第26章39節には「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」とある。前半はイエスの率直な心である。イエスは父なる神に『できることなら、十字架を取り除けてください』と祈られた。しかし、後半では「わたしの思いのままにではなく、みこころのままに」と神の御心に沿うことを決意する。そして42節でも「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と、御心を受け入れる決意を重ねている。つまり、私たちの罪を負って十字架で死なれることを御父の御心として受け入れられた。十字架を選び取られたのである。<br /><br />イエスの十字架の選択は、痛みと苦しみを伴う行動だった。しかし、十字架があるからこそ、復活もある。苦難があるからこそ、栄光もある。神は十字架の死に至るまで従順だったイエスを高く上げ、全てにまさる名をお与えになった（ピリピ人への手紙第２章8～9節）。同じように、私たちも神の御心を選び取るとき、痛みや苦しみが伴うこともあるかもしれない。しかし、長い目で見るなら、それは心からの喜びと満足を与えてくれる道であることを覚えたい。</span></span><br /><br /><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191404906.html</link>
      <title>「ルカによる福音書」第24章1節3〜35節「その姿が見えなくても」</title>
      <pubDate>Tue, 01 Jul 2025 14:27:52 +0900</pubDate>
      <description>2024年4月7日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。 聖書箇所は「ルカによる福音書」第24章13節〜35節、説教題は「その姿が見えなくても」。イエスが復活した日の夕方のこと。 エルサレムでのイエスの処刑にショックを受けたふたりの弟子がエマオという村に向かって歩いている。 そこに現れたのは、復活のイエスご自身。ところが、イエスが一緒に歩いているのに、ふたりはまったく気がつかずに、その目は遮られている。弟子たちにとっては、イエスが復活されることは、思ってもみなかったこ..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;">2024年4月7日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。 聖書箇所は「ルカによる福音書」第24章13節〜35節、説教題は「その姿が見えなくても」。<br /><br />イエスが復活した日の夕方のこと。 エルサレムでのイエスの処刑にショックを受けたふたりの弟子がエマオという村に向かって歩いている。 そこに現れたのは、復活のイエスご自身。ところが、イエスが一緒に歩いているのに、ふたりはまったく気がつかずに、その目は遮られている。弟子たちにとっては、イエスが復活されることは、思ってもみなかったこと。その不信仰の故に、目の前のイエスに気づかないのだろう。<br /><br />また、復活された主のお姿は生前のそれとはやや異なっていたものと思われる。やがて、いつの日か、われわれが復活の体を頂くときも、以前とは少々違って見えるかもしれない。だけども、よく見ると確かに、お互いを認識することができる。 復活の体とはそういうものなのではないだろうか。<br /><br />いずれにしても、ふたりの弟子は自分たちが希望を置いていたイエスという偉大な教師が亡くなってしまったことを嘆きつつ切々と訴えている。しかも、十字架につけられるという悲惨な最期を遂げたことを。そして、ふたりが訴えているのは、当のイエスご自身に対してである。<br /><br />この箇所で23節までのイエスは、一緒に歩いて弟子たちの話しをじっくりと聴く、良きカウンセラーであった。 痛みと喪失の物語りを聴いてもらうことによって、ふたりの心は少しずつ解きほぐされたのではないだろうか。一方、24節以降のイエスは、偉大な教師である。イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」のだ。後にふたりは、旅の間、イエスは常に傍らを歩いておられたと気づく。その時「私たちの心は燃えていたではないか」と語り合う。聖書を解き明かす主の言葉に愛を感じたからこそ、弟子たちの心の内側が燃えたのであろう。 そこに何とも言えぬ暖かいものを感じたのだ。<br /><br />われわれはイエスがそばにいることに 得てして気づかない。この場面でイエスが弟子たちにパンを渡したその手首に、ふたりは十字架の傷跡を見たのではないかと、ある説教者は指摘する。そして、目の前のその人がイエスであると気づいた瞬間、そのお姿は見えなくなった。 これは何を意味しているのだろう？イエスがどんな時でも共にいてくださることに気づくなら、それで十分なのである。見えるか、見えないかは、実は信仰にとってそれほど大切ではない。 もちろん、われわれは、やがて終わりの日にイエスとお会いすることを信じて、待ち望んでいる。でも、その日が来るまで、主はいつでも共にいてくださる。このことを信仰によって受け取るならば、それで十分なのである。<br /><br />そして、われわれには、聖書と聖霊と教会が与えられている。教会は共に主を仰ぐ 、信仰者の共同体である。 ペテロの第一の手紙第1章8〜9 節には、「あなたがたは、 キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです」とある。この言葉に励まされながら、信仰によってこの世の旅路を歩んでいこう。</span><br /><a name="more"></a>

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            <category>礼拝メッセージ</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191312706.html</link>
      <title>マルコによる福音書第16章1〜8節「広く大きなキリストの心」</title>
      <pubDate>Thu, 10 Apr 2025 09:16:25 +0900</pubDate>
      <description>2024年3月31日、尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。この日はイースター(復活祭)。聖書箇所はマルコによる福音書第16章1〜8節。説教題：「広く大きなキリストの心」。キリスト教会には３つのお祝いがある。クリスマス、ペンテコステ、そしてイースター。中でもイースターは、キリスト復活の記念日であるから、信仰的に最も意味のある日と言えよう。マルコ福音書第16章では、3人の女性が安息日明けにイエスの墓に急ぐ。安息日には何の労働もできないので、その翌朝に彼女らはイエスの亡骸に香料を..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;">2024年3月31日、尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。この日はイースター(復活祭)。聖書箇所はマルコによる福音書第16章1〜8節。説教題：「広く大きなキリストの心」。キリスト教会には３つのお祝いがある。クリスマス、ペンテコステ、そしてイースター。中でもイースターは、キリスト復活の記念日であるから、信仰的に最も意味のある日と言えよう。<br /><br />マルコ福音書第16章では、3人の女性が安息日明けにイエスの墓に急ぐ。安息日には何の労働もできないので、その翌朝に彼女らはイエスの亡骸に香料を塗ろうとしている。当時の墓は、今と違って、洞穴に前室と後室があり、後室に遺体を火葬せずに安置。そして、直径1mくらいの大きな石を置いて洞穴を外側から塞いだ。3人の女性は「どうしたら石を取り除けるか？」と話し合いながら墓に向かった。確かに女性3人でこの石をどかして中に入るのは至難の業。 「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石がすでに転がしてあった」というのだ（4節）。しかも、墓の中には天使がいて、イエスの復活を告げられたのだ。ここで注目したいのは「目を上げて」という言葉。3人の女性たちは目を上げてみるまでは、心配していた。あの大きな石をどうしたらいいのか、誰がどかしてくれるのかと。まさかイエスが復活されているとは、夢にも思っていなかった。でも、目を上げて見たとき、全てが一変した。石は既に転がしてあった。心配したことは全く意味のないことだったと判明したのだ。<br /><br />イギリスのジョン・ストット牧師の語った有名な例話がある。 （ちなみにジョン・ストットは米国のビリー・グラハム と比肩する著名な牧師である。 ） 「あなたがたの目を上げてください。皆さん方は、もちろん時代の子です。しかし同時に永遠の子でもあるのです。天の市民であって、地上ではよそ者、寄留者、…巡礼者です。ある若い人が道で5ドル紙幣を見つけました。それからというもの、歩くときには目を上げることをしなかった。長年かけて彼が収集した物は、29,415個のボタン、54,172個のピン、12セント。背中は曲がってしまい、惨めな身になった。この若者が何を失ったかを考えてみてください。彼の目はいつも溝に向けられていたので、日光の輝き、星の光、友人の微笑み、春の花を見ることができませんでした。このようなキリスト者があまりに沢山います。私たちにとって大切な勤めがあります。しかし自分がどのような存在か、自分がどこに行こうとしているかを忘れるほど、それらに心を奪われてはなりません。 」<br /><br />私たちの問題は、あまりにもしばしば人間的な見方、この世的な見方にとらわれてしまうこと。下ばかりを見ていると、色々なことが気になりだす。視野が狭くなり、近視眼的になる。そんなとき、『目をあげなさい』と神の言葉は私たちに語りかける。キリストは死から復活された。父なる神は御子イエスを死人の中からよみがえらせてくださった。そして、キリストがよみがえられたということは、今も生きておられるということ。このお方は世の終わりまで私たちと共におられると約束してくださった。目を上げよう！<br /><br />さて、マルコ16章に立ち返ると、天使は３人の女性にイエスからの伝言を告げる。自らの伝道の起点であるガリラヤ湖での再会をイエスは約束された。しかしその伝言には弟子たちとは別にペトロを名指ししていた。7節には「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」とある。「弟子たち」と言えばペトロも含まれるはずなのに、どうしてわざわざ名指しされたのだろう？　イエスが捕らえられたとき、ペトロはイエスの予告通り、鶏が２度鳴く前に３度「イエスなどという人は知らない」と否定してしまった。イエスが復活されたとしても『どの面下げて会えようか』と煩悶するであろうペトロの心を案じてのこと。『私はあなたにも来てほしい。あなたとも会いたいのだ』というイエスの思いが込められている。つまり、ペトロはイエスを見捨てたが、イエスはペトロを見捨てていなかった。<br /><br />現代のこの社会では一度過ちを犯した人は徹底的に叩かれる。 SNSの炎上などによって、匿名で多くの人がひとりの人を徹底的に打ちのめすこともあるだろう。しかし、たとえ過ちを犯しても、イエスは決して私たちを見捨てない。あくまでペトロを立ち直らせようと、「弟子たちとペトロに伝えなさい」と念を押されたように。人を見捨てず、切り捨てず、その人が悔い改めて、回復して、歩み出すのをあたたかく見守ってくださる。どんなに裏切られても、主の広く大きな愛は変わらないのである。</span><br /><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191217416.html</link>
      <title>ルカによる福音書第23章44〜49節「父よ、私の霊を御手に委ねます」</title>
      <pubDate>Sat, 18 Jan 2025 23:14:13 +0900</pubDate>
      <description>3月24日の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はルカによる福音書第23章44〜49節。中心聖句は、46節の「父よ、私の霊を御手に委ねます」。これはイエスの受難における7つの言葉の7つ目。つまり、十字架上での、否、この世の生涯における最後の言葉といえる。ここで、これまで学んだ、7つの言葉をさらってみると、以下の通り。①「 父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」② 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;"><span style="font-size:large;"></span>3月24日の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はルカによる福音書第23章44〜49節。中心聖句は、46節の「父よ、私の霊を御手に委ねます」。これはイエスの受難における7つの言葉の7つ目。つまり、十字架上での、否、この世の生涯における最後の言葉といえる。ここで、これまで学んだ、7つの言葉をさらってみると、以下の通り。<br />①「 父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」② 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」③ 「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」 「ご覧なさい。あなたの母です」④ 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」⑤ 「わたしは渇く」⑥ 「完了した」⑦ 「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」<br /><br />淀川キリスト病院の柏木哲夫先生は、ホスピスで２千人以上を看取ってきた。先生曰く「人は生きたように死んでゆく」。その人の死に様は、生き様を表しているという。イエスはこの世を去るとき、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と祈られた。父なる神にご自身の全てをゆだねて息を引き取られた。イエスの生涯は父なる神に全てをお任せした歩みだった。イエスが最後に祈られたこの言葉は旧約聖書の詩編31篇6節から来ていると言われる。そして、この31篇はユダヤ人にとっても、初期のキリスト教徒にとっても、夕べの祈りであり、一日の営みを終えるときの祈りだったようだ。夕べもしくは夜寝る前に、「主よ、まことの神よ。私の霊を御手に委ねます」（詩編31・6）と祈ったのである。その日一日の苦労も、明日の心配も全て神にお任せして、眠りにつく。そんな毎日を過ごす人は幸いである。そういう人にとっては、もはや死は眠りとそんなに変わらないのかもしれない。その人の死に様は、その人の生き様を表すのである。<br /><br />この詩篇31篇には「私の時は御手にあります」（16節）という言葉もある。人生百年時代と言われるように寿命は延びた。しかし、どんなに寿命が延びたとしても、人はいつか必ず死ぬことに変わりはない。命がその人に与えられている時間だとしたら、私たちにはどれぐらいの時間が残されているのだろう？　マタイによる福音書第10章29〜31節でイエスは「2羽の雀が１アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と言われる。1羽の雀さえ神のお許しなしには死ぬことはない。そうだとしたら、私たち一人一人の生涯が神の手の中に守られているのはなおさらではないかと、イエスは言われる。神は私たち一人一人のこの地上における『時』をご存じ。その時が来るまで、私たちの人生をしっかりと握ってくださり、守ってくださる。私たちの時は御手の中にあることを覚えたい。<br /><br />さて「父よ、私の霊を御手に委ねます」というこの言葉は、今まさに息を引き取ろうとしている時に十字架上で語れた言葉。使徒信条で言われているように、イエスはこれから『よみ』に降ろうとされている。つまり、私たちの罪を負って死なれたこのお方は、死の苦しみをとことん味わわれようとされている。それでも、主は3日後には、父なる神がご自身を死から復活させてくださることを信じていた。たからこそ、この言葉を残すことができたのだろう。同じように、キリストにある私たちも肉体の死によって、魂は愛なる神のもとに帰ってゆくだろう。しかし、やがていつの日か、キリストの再臨と共に新しくされた世界で体のよみがえりにあずかると私たちは信じている。キリストが聖書の中で約束された通りである。『永遠の朝』を迎える、その日に望みを置きつつ、この世の旅路を歩んでいきたい。<br /><br /></span><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191141231.html</link>
      <title>ヨハネ福音書第 19 章 30 節「成し遂げられた」</title>
      <pubDate>Sat, 16 Nov 2024 03:19:26 +0900</pubDate>
      <description>3月17日の説教。「成し遂げられた」(口語訳では「すべてが終わった」)。これは十字架におけるキリストの６番目の言葉である。今やイエスは十字架上でご自身のなすべき全てのことを遂げられた。もっと言うなら、この世の生涯におけるご自身の任務を完了された。では、イエスの任務とは何だろうか？　お気に入りのワーシップソングのひとつに「Because He Lives」という曲がある。その歌詞を和訳すると次のようになる。♪ 神はご自身の御子を私たちに与えられた人々はこの方をイエスと呼んだ彼は..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;">3月17日の説教。「成し遂げられた」(口語訳では「すべてが終わった」)。これは十字架におけるキリストの６番目の言葉である。今やイエスは十字架上でご自身のなすべき全てのことを遂げられた。もっと言うなら、この世の生涯におけるご自身の任務を完了された。<br /><br />では、イエスの任務とは何だろうか？　お気に入りのワーシップソングのひとつに「Because He Lives」という曲がある。その歌詞を和訳すると次のようになる。<br /><br /><strong><em>♪ 神はご自身の御子を私たちに与えられた<br />人々はこの方をイエスと呼んだ彼は愛するため いやすため ゆるすために来てくださった<br />彼は生き そして死なれた<br />私のゆるしを獲得するため<br />空の墓は私の救い主が生きていることを証明している♪</em></strong><br /><br />神はわれわれをいやすため、 ゆるすために御子を遣わされたという。 つまり、 御子の生き様（ざま） によってご自身がどのようなお方かを示すためこの方を世に送られた。 ヨハネ福音書第 14 章 9 節で、「私を見た者は、父を見たのだ」とイエスは言われる。私たちは御子イエスの姿に、神ご自身を見ることができる。また、「彼は生き そして死なれた 私のゆるしを獲得するため」とある。これはキリストの十字架の贖いを歌っている。「私のゆるしを獲得するため」の部分は、「私のゆるしを買い取るため」とも訳せる。 聖書には、罪を借金にたとえる箇所がいくつかある。そうだとしたら、 イエスが私たちの罪のために十字架で死なれたことは、 私たちの借金を肩代わりしてくださったことを意味している。この私がゆるされるため、代価が支払われた。つまり、「成し遂げられた」 とは、キリストの十字架の故に、 私たちの借金は支払い済みにされた。言わば、完済されたということ。私たちは神に立ち返り、信仰によって、この恵みを受け取ることができる。<br /><br />ルカ福音書第 14 章 15 節〜24 節で、イエスは大宴会のたとえを語っておられる。これは神の御国における喜びを大宴会にたとえた物語り。宴会の主催者は招いた客たちの所へ僕（しもべ）を送ってこう言わせた。「もう準備ができましたので、お出でください。」準備はすべて整った。後は喜び楽しむばかり。なぜなら、イエスが全てを成し遂げられたから。私たちが罪ゆるされて、救われて、永遠の命を頂くために、 必要なすべてのことをあの十字架で成し遂げてくださった。<br /><br />神学校のある教師が「礼拝とはセレブレーション(お祝い)である」と語った。すなわち赦されていること、救われていることへのお祝いである。 受難週(レント)は、 復活祭であるイースターの 46 日前から始まる。 どうして、40 日前ではなく、46 日前なのか？その期間の 6回の日曜日は受難節に含めないからである。 日曜日はキリストの復活を記念して喜び、 祝う日。 だから、その日に、悲しそうな顔、苦しそうな顔をしているのは相応しくない。それで、古代の信仰者たちは日曜日を受難節から除いた。私たちは主が成し遂げてくださったことを祝うのである。<br /><br />さらに、ヘブライ人への手紙第 12 章 2 節には「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、 走ろうではないか」とある。 イエスはその生涯において父なる神のお心に従順に歩まれた。 罪を犯すことなく、十字架の死に至るまで従順に歩まれた。 今や、私たちはこのお方の歩まれた足跡（そくせき）に従って歩むように招かれている。マラソンは先頭を走る人よりも、その後ろにピッタリついて２番手で走る方が楽であると言われる。 先頭ランナーは、風圧を受けて空気抵抗があるので困難であるという。キリストはわれわれのために先頭を切って走られた。この世のあらゆる誘惑を受け、試練を通られ、十字架の苦しみをも乗り越えられた。私たちはただこのお方の後に続いて行けばいいのである。イエスは成し遂げてくださった。この世の戦いに既に勝利をおさめられた。私たちは先立つこのお方について行けばいいのである。<br /></span><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191084810.html</link>
      <title>ヨハネによる福音書第19章28節「 渇く」</title>
      <pubDate>Fri, 04 Oct 2024 15:08:04 +0900</pubDate>
      <description>尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による3月10日の説教は、ヨハネによる福音書第19章28節より、説教題は「 渇く」。これは受難節(レント)におけるキリストの7つのことばのうち５つめ。十字架上で苦しみの極致にあったイエスは、自らの渇きを訴えられた。「渇く」と言われたイエスの言葉について、ある説教者は これは神から見放された『霊的な渇き』」と表現した。確かに、そうかもしれない。しかし、私たちは神の御子は『まことの人』としてこの世に来られたことを忘れてはならない。初期ローマ教会では、..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;">尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による3月10日の説教は、ヨハネによる福音書第19章28節より、説教題は「 渇く」。これは受難節(レント)におけるキリストの7つのことばのうち５つめ。<br />十字架上で苦しみの極致にあったイエスは、自らの渇きを訴えられた。「渇く」と言われたイエスの言葉について、ある説教者は これは神から見放された『霊的な渇き』」と表現した。確かに、そうかもしれない。しかし、私たちは神の御子は『まことの人』としてこの世に来られたことを忘れてはならない。初期ローマ教会では、異端とされたグノーシス派が「イエスは神であるから、その肉体は幻である」と述べたという。しかし、いつの時代も正統的なキリスト教会は「キリストはまことの神であり、同時にまことの人である」と告白してきた。私たちと全く同じ生身の体を持っておられたイエスは『肉体の苦痛』と決して無縁ではなかった。磔刑にされたイエスは、人間としての弱さや痛みをどれほど味わわれたことだろう。新聖歌209番「慈しみ深き」には、私たちの悩みや苦しみに寄り添ってくださるイエスの姿が歌われている。<br />〓慈しみ深き 友なるイエスは<br />〓われらの弱きを 知りて憐れむ<br />〓悩み悲しみに 沈めるときも<br />〓祈りに応えて 慰めたまわん<br />私を信仰に導いてくれた母の晩年は病との闘いの日々であった。息を引き取る直前には、医師によると、全力でマラソンを走っているような苦しみだった。そんな母を私たち家族はこの賛美歌を歌って見送った。まさに母の弱さ苦しみをも知ってくださるイエスが、その弱さの中にも共にいてくださったと信じている。人として十字架の苦しみを受けられたイエスだからこそ、私たちのいかなる苦しみの中にも共にいてくださる。肉体的な痛みも、精神的な苦しみも。それらの痛み苦しみを共に担ってくださり、その身に引き受けてくださるのだ。慈しみ深き友なるイエスは、われらの弱きを知りて憐れむ！<br /></span><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/191058751.html</link>
      <title>わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか</title>
      <pubDate>Fri, 13 Sep 2024 20:20:13 +0900</pubDate>
      <description>尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による 3 月 3 日の説教は、 マタイによる福音書第 27 章45〜46 節から。 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」 （46 節） 。十字架上のキリストの 7 つのことばのうち４つめで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 (ヘブル語)という叫び。磔（（はりつけ） にされたイエスのことばのうちで、 内容的にもクライマックスといえる言葉である。  キリスト教作家の三浦綾子先生は、 初めてこの部分を読んだときについて、 「がっかりし..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;"></span><span style="font-size:large;">尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による 3 月 3 日の説教は、 マタイによる福音書第 27 章45〜46 節から。 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」 （46 節） 。十字架上のキリストの 7 つのことばのうち４つめで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 (ヘブル語)という叫び。磔（（はりつけ） にされたイエスのことばのうちで、 内容的にもクライマックスといえる言葉である。 <br /><br /> キリスト教作家の三浦綾子先生は、 初めてこの部分を読んだときについて、 「がっかりした、失望した。これが神の子の言葉か」という感想を書いている。たしかに、私も最初これを読んだとき「キリストらしくない言葉」と違和感を覚えた。それまでは自らを処刑する人々の罪の赦しを願っていたのに、 ここにきて唐突に神への嘆きが述べられている。一体これを私たちはどのように受け取ったらいいのだろうか？<br /><br /> この下りを３つの観点で考察したい。 第一に、これは私たちの罪を負われたキリストの言葉であったということ。三浦綾子先生の先ほどの言葉は信仰を持つ前のもので、その当時、イエスの死は自分とは無関係であると思っていた。しかし自分の罪に気づいてからは、その言葉の意味は「身代わりの死」に変わる。 本当に見捨てられるべきは私だった。私たちだった。それなのに、イエスが私たちの罪をその身に負って十字架につけられ、血潮を流し、命を投げ出してくださった。いわば、この私に代わって叫ばれたのが、 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉であったのだ。<br /><br /> 第二にキリストは苦しむ私たちと共にあり連帯してくださるということ。この世界には「なぜどうして？」と神に問いたくなる現実が多くある。 自分自身の罪で苦しむ場合もあれば、人の罪によって苦しめられることもあるだろう。また、罪とは直接関係なくても、例えば災害などによって苦しむことも。 イエスの叫びは詩篇第 22 編を引用していると言われる。詩篇には「嘆きの詩篇」 と呼ばれる箇所が多くある。 それは、 私たちの嘆き悲しみを訴えることのできる神がいてくださるということ。いくら不条理なことであっても全てをキリストが、 受け止めてくださり、苦難の中にも共にいてくださる。なせなら、このお方は十字架の上で誰よりも不条理な目に遭われたのだから。<br /><br /> 第三にキリストの十字架ゆえに、私たちは神さまに見捨てられることはないということ。マタイによる福音書第 16 章 24 節で、 キリストは「自分を捨て、 自分の十字架を負って、 私に従いなさい」と述べられている。加藤常昭牧師の本に、 ドイツからいらしたバーン・アルト・ブッシュ先生に、ある学生が「キリストの十字架と、 私たちの十字架はどう違いますか？」と質問したとある。それに対して先生は「キリストの十字架の苦しみは既に終わっている」と答えられたという。 つまり、 キリストが私たちのために十字架で苦しみを受けてくださり、たとえ一時とは言え、 父なる神さまから見捨てられる体験をしてくださった。そうであれば、イエスに頼る私たちはもはや神に見捨てられることはないということである。私たちはもはやあれほどの深い絶望を体験する必要はなく、むしろどんな時でも神が共にいてくださると確信できる。<br /><br /> 聖書によると、 イエスの十字架刑は午前９時から午後３時まで６時間を要している。 長時間の苦しみに耐えなければならない凄惨な状況だった。 後半の３時間、 太陽は隠れ、 暗闇となった。しかし闇はいつまでも続いたわけではなく、やがては晴れたのである。 私たちも神を遠くに感じる、 暗闇の時を経験することがあるかもしれない。でも、それはいつまでも続くのではない。 やがて再び太陽は輝く。それは、 十字架の苦しみを超えたところに、復活の喜びがあるのと同じである。<br /></span><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/190998293.html</link>
      <title>ヨハネによる福音書第19章25〜27節「あなたの子です。あなたの母です」</title>
      <pubDate>Sun, 28 Jul 2024 00:42:27 +0900</pubDate>
      <description>2月25日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。ヨハネによる福音書第19章25〜27節より、説教題は「あなたの子です。あなたの母です」。十字架上の７つのことばの３つ目。十字架には公開処刑という意味合いがあった。その残酷な光景を近くで見守っていた母マリアは一体どのような思いだったのだろう。このマリアの悲しみをさえイエスは十字架上で引き受けられたに違いない。ここでイエスは二つのことばを語られている。一つはマリアに「これは(ヨハネは)あなたの子です」、もう一つはヨハネに「こ..</description>
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<span style="font-size:large;"><span style="font-size:large;">2月25日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。ヨハネによる福音書第19章25〜27節より、説教題は「あなたの子です。あなたの母です」。十字架上の７つのことばの３つ目。十字架には公開処刑という意味合いがあった。その残酷な光景を近くで見守っていた母マリアは一体どのような思いだったのだろう。このマリアの悲しみをさえイエスは十字架上で引き受けられたに違いない。<br />ここでイエスは二つのことばを語られている。一つはマリアに「これは(ヨハネは)あなたの子です」、もう一つはヨハネに「これは(マリアは)あなたの母です」と。マリアの夫ヨセフは既に亡くなっており、イエスは残された母を弟子のヨハネに託された。ヨハネはマリアを自分の家に引き取った。ヨハネが一方的にマリアを保護していたのかと言えば、必ずしもそうではないだろう。弟子の中でも最も若かったと言われるヨハネにとって、イエスの処刑はことさらにショックだったはず。きっとマリアの存在はヨハネにとっても慰めとなったことだろう。ふたりは本当の親子のようにお互いを支え合ったのではないだろうか。晩年のマリアはヨハネとともに、エペソで暮らしたと言われている。キリストの十字架のもとに新しい家族関係が生まれたのだ。<br />10年ほど前に奉仕していた教会で「親子の会」を運営していた。近隣の子どもたちとその保護者を招いて、一緒に遊ぶ場を提供した。これに参加したあるお母さんが「教会の皆さんは、親戚づきあいをされているように、仲がいいのですね」と感心していた。教会は神の家族である。十字架の贖いによって、罪ゆるされた私たちは神を天の父と呼び、イエスを長兄として崇め、お互いを兄弟姉妹として仕え合う。神の家族である私たちに、キリストは「新しい戒めを与える」とヨハネ福音書13章34節で言われた。その戒めとは「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」主がゆるしてくださったように、互いにゆるし合い。主が仕えてくださったように互いに仕え合う。それこそが神の家族としての教会の姿である。<br />　さて、聖書によると、イエスは聖霊によってマリアより生まれ、大工ヨセフの息子として成長された。その家庭生活がどのようなものであったか、ほとんど語られていない。しかしルカ福音書第2章後半にはイエスの少年時代に関する叙述がある。そこでは『イエスはヨセフとマリアに仕えた』とある。３０歳になってからは、公の宣教活動を始められたが、その間にも、ご自分の母や弟や妹たちのことを覚えておられたにちがいない。そうして、最後にはご自分がこの世を去った後の母マリアのことを配慮され、ヨハネに母を託された。私たちはこのようなイエスの姿に従うようにと招かれている。<br />わが家にはカッティングボード(小さなまな板)がある。そこには「台所の祈り」が書かれている。『主よ、私の小さな台所を祝福してください。お料理をするときも、お皿を洗っているときも、私の心をいつも喜びで満たし続けてください。あなたの祝福を、私の家族みなでいただくことができますように。そして、あなたが再びおいでになるときの心備えができますように。アーメン』　<br />家庭の主婦が家族を想いつつ喜びをもって家事をすることができるようにと。そんなお祈りだろうか。（もちろん、家事をするのは妻だけとは限らない）。私たちが毎日の平凡な暮らしの中で家族を愛し、家族に仕えること。これもまた、キリストに従う歩みの大切な一部分であることを私たちは覚えたいと思う。<br /><br /></span></span><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/190945242.html</link>
      <title>神の愛は自業自得を乗り越える</title>
      <pubDate>Wed, 19 Jun 2024 17:45:35 +0900</pubDate>
      <description> 1/21 の尾久キリスト教会での広瀬邦彦先生の説教。この日の題材は創世記第 14 章 1〜16節。タイトルは「神の愛は自業自得を乗り越える」。自業自得とはもともと仏教用語で「自分の行為の結果を自分が得る」という意味だが、否定的なニュアンスで使われる場合がほとんど。創世記第 14 章は諸王の名が入り乱れる箇所だが、当時の状況から解説すると言わば『 東軍 vs.西軍』の戦いと言える。かたや東軍はメソポタミア連合軍、一方の西軍はソドム・ゴモラ方面軍。この戦いに、前章でアブラハムと..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;"><span style="font-size:large;"> 1/21 の尾久キリスト教会での広瀬邦彦先生の説教。この日の題材は創世記第 14 章 1〜16節。タイトルは「神の愛は自業自得を乗り越える」。自業自得とはもともと仏教用語で「自分の行為の結果を自分が得る」という意味だが、否定的なニュアンスで使われる場合がほとんど。<br />創世記第 14 章は諸王の名が入り乱れる箇所だが、当時の状況から解説すると言わば『 東軍 vs.西軍』の戦いと言える。かたや東軍はメソポタミア連合軍、一方の西軍はソドム・ゴモラ方面軍。この戦いに、前章でアブラハムと道を分かったロトが、東軍から掠奪捕縛されるという災難に巻き込まれる。しかし叔父であるアブラハムが危険を顧みずに救出してくれた。<br /> 思えば前章で道を分かつ際、年長者であったアブラハムが寛大にも年若きロトに目的地を先に選ぶ権利を譲った。ロトが自分たちの生活の場として選んだのはソドムの肥沃な地。ロトは遠慮会釈なしに自分たちの生活のために良く栄えた低地を選び、アブラハムはそれに甘んじた。そんなロトが今や自らの選択のため、危機的な状況に陥っている。まさに、自業自得！にもかかわらず、アブラハムは命の危険を冒してまでロトとその一族を救い出したのだ。私たちはこのようなアブラハムの自己犠牲的な姿に、キリストの愛を感じる。それは、自業自得を乗り越えた大いなる愛である。ロトは神のあわれみによって、命を救われ、危機的状況を脱することができた。その後、彼の生き方は変わったのだろうか？私たちにはわからない。しかし、命を救われた者は、神への感謝をもって、新たな人生へと導かれる。<br /> 先日の祈祷会にてオンラインで公開された石川県輪島市にある某教会の礼拝説教を皆で聴いた。今年の元旦、能登半島地震の被害に遭われた教会である。牧師の A 先生は、震災後の状況を語られた。家族と無事を喜び合って、お互いを抱擁し合ったという。そしてマタイ福音書 6 章 25 節を引用しつつ、生かされていることの幸いを力強く語られた。この時点では未だ上下水道は使えず、コロナやインフルエンザの流行が心配される状況であった。それでも「不謹慎な言い方かもしれないが、私は今、幸せです」と語られた。「今この街には、お互いを労り合う空気が満ち満ちています。自分のことよりも人のことを優先する。そんな新しい常識がこの街では息づいています。救援に来てくれた自衛隊や警官の方々に ありがとうございます』と語りかけると、最敬礼で応えてくれます。これも災害に遭ったわれわれに対する神の恵み。それに応えて歩いてゆきたい」と。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」（マタイ 6章25節）。ロトは神のあわれみによって、命辛々に救われた。死んでいてもおかしくなかったのに…。生かされている恵みを知った人は、生き方が変わる。変わるように招かれている。キリストにより罪と滅びから救われた私たちも神の無償の愛に応える歩みをしていきたい。</span></span><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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      <link>http://oguchurch.sblo.jp/article/190919812.html</link>
      <title>キリストの洗礼と、私たちの洗礼</title>
      <pubDate>Fri, 31 May 2024 10:00:24 +0900</pubDate>
      <description>  1月14日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイ福音書第3章13節から17節。「キリストの洗礼と、私たちの洗礼」。  これは30歳になったイエスが、バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けるシーン。ヨハネが人々に授けていた洗礼は、罪の悔い改めを伴った。罪がゆるされるための洗礼であった。ところが、イエスは罪の全くないきよいお方。罪のないイエスが、罪がゆるされるための洗礼を受けるのは矛盾ではないか。ヨハネはイエスに洗礼を授けることを躊躇する。それでも、イ..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;"><span style="font-size:large;">  1月14日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイ福音書第3章13節から17節。「キリストの洗礼と、私たちの洗礼」。<br />  これは30歳になったイエスが、バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けるシーン。ヨハネが人々に授けていた洗礼は、罪の悔い改めを伴った。罪がゆるされるための洗礼であった。ところが、イエスは罪の全くないきよいお方。罪のないイエスが、罪がゆるされるための洗礼を受けるのは矛盾ではないか。ヨハネはイエスに洗礼を授けることを躊躇する。それでも、イエスはヨハネから洗礼を受けられた。それは罪のないイエスが、罪人である私たちと同じ立場に立ってくださったことを意味している。やがてこのお方は私たちの罪を背負って十字架で死なれる。つまり、イエスはこの時、十字架への道を歩み始められたのだ。<br />　イエスの洗礼後に聞こえた天からの声は、まさに神さまの声だった。それはイエスが、父なる神の愛する子であるということ。これこそがイエスの真の姿である。私たちがキリストを信じて洗礼を受けるとき、私たちもイエスの立場に立たせて頂ける。つまり、罪のある私たちが罪をゆるされて、神の子どもとして頂けるのだ。キリストを通して天の父は私たち一人ひとりにも語りかけてくださる。「あなたは私の愛する子」と。<br />  宗教改革の担い手だったマルチン・ルターの人生は戦いの連続だった。それゆえに体調の不調に悩まされることも多かった。不眠、眩暈、便秘、鬱症状‥。ルターの部屋の壁にはインクの染みがある。これは悪魔が、執筆中のルターを訪れた際に、ルターが悪魔にインクの壺を投げた跡と言われる。その際にルターは、額に手をやって「私は洗礼を受けている、私は洗礼を受けている」と自らに言い聞かせたという。このように、洗礼は私たちが罪ゆるされ、神さまに愛されている神の子どもであるという印である。<br />　今回の箇所に続く、マタイ福音書第４章では、イエスは荒れ野で悪魔の試みを受けられる。これが人生である。神の愛の御声を聞く喜びの時もあれば、荒れ野をさ迷うような試練の時もある。しかし、そんな時こそ、私たちは思い出したい。キリストを信じ、洗礼を受けた私たちは、神の子である。神は決してあなたを見捨てない。<br /></strong></strong></strong></strong></span></span><a name="more"></a>

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            <category>説教</category>
      <author>take</author>
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