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2024年02月14日

飼い葉桶の中の救い主

  尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の12/24説教。この日の説教はルカによる福音書第2114節から、説教題は「飼い葉桶の中の救い主」。

 イエスの降誕は2000年以上前の人目につかない場所でのこと。「飼い葉桶」ということばが聖書に出てくることから「馬小屋で生まれた」と言われることがある。しかしその頃の馬は軍隊に用いられたり、高貴な人たちの乗り物であったようで、一般的ではなかった。イエスの生まれた場所は、ロバや羊が飼われた家畜小屋であったと思われる。小屋と言っても洞窟のようなところで、動物の匂いに満ちた空間であった。神の御子がなぜそのような場所で産声を上げなければならなかったのか。神の御子なら神の御子らしく、王の宮殿や大金持ちのお屋敷で生まれてもよさそうなものなのに…。

 実は、その頃、人口登録のため、人々は各自、出身地に帰るようにというお達しが下されていた。そのため、ヨセフも産気づいていた妻マリアを連れて、ナザレからベツレヘムに旅をしなければならなかった。ところが、人々が一斉に移動したためか、町に入っても、宿はどこも一杯。この若き夫婦に部屋を提供してくれる家はなかったようだ。ようやく、ふたりはある家主のお情けによって、家畜小屋のような所に泊めてもらえたというわけだ。

 もう何年も前になるが、クリスマスの時期、さる年配の女性牧師が教会学校の子どもたちにこんなお話をされたことを思い出す。「もしもイエスさまが宮殿や立派なお屋敷で産まれたら、貧しい人や身分の低い人はお祝いに行くことができなかったでしょう。だけど、家畜小屋なら誰でも、どんな人でも訪ねることができます。どんなに貧しくても身分が低くても家畜小屋なら行けるのです」と。子どもたちといっしょに聞いたこの年配牧師の言葉が今でも忘れられない。

神のみ使いが、最初にキリストの降臨を告げ知らせた相手は羊飼いたち。この頃の羊飼いという仕事は、今で言う3K(きつい、汚い、危険)。決して人々が憧れるような職業ではなかった。それでも、社会においてはなくてはならない必要な仕事。誰かがやらなければならなかった。つまり、羊飼いたちは社会の片隅で苦労しながら生きていた人たち。そんな彼らに救い主の降誕は真っ先に知らされたのだ。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」とみ使いは羊飼いたちに告げ知らせた(1011節)。救い主キリストは「あなたがたのためにお生まれになった」と。

 羊飼いのように社会の片隅で苦労している人、人々から見捨てられた人、あまり注目されることない人。そして、人生の悲しみや苦しみを知っている人。そういう人のために、今からおよそ2000年前、神の御子キリストは来てくださった。飼い葉桶に寝ている乳飲み子が「あなたがたへのしるしである」と天使は言う。何のしるし?神はあなたを見捨てない、どんな人でも神の愛からもれてはいないという『しるし』である。


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2024年01月31日

注意深く生きる

1217日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による待降節3週目の説教。聖書箇所はマタイによる福音書第2章112節で、テーマは「注意深く生きる」。

息子の幼児園では毎年クリスマスの時期になると、聖誕劇(イエス降誕の劇)が子どもたちによって演じられた。息子は東方の3人の博士のひとり、『もつ薬』を捧げた役であったが、これはまさに聖書のこの箇所に記された場面である。

東方から来たというこの博士たちは、ペルシャやバビロニアあたりからエルサレムまではるばる旅をして来たと言われている。そうだとしたら、そこはかつてユダヤの民が捕囚として捕らえられ、連れて行かれたところ。そのため、かつてユダヤ人とも接触のあったその地方の人々は、旧約聖書に伝えられたメシア預言(救い主 降臨の預言)を知っていたとも考えられる。先祖伝来、やがて来たるメシアについて聞かされていたのではないだろうか。

 それにしても、博士たちが星に導かれてエルサレムまでやって来たとは何とも不思議な話しに思える。夜空に輝く星を救い主の誕生と結びつけ、エルサレムまでやって来たとは!しかし、これは考えようによっては、それほど不思議ではないのかもしれない。神は生きておられ、全てを支配しておられると信じるならば、そんなに不思議なことではない。この世界と日常生活のあらゆる物事を通して、神は人に語りかけようとしておられるのだから。

17世紀の修道士であったブラザー・ローレンスは、元々は、兵士であった。しかし、若い頃に大けがをして、傷心でいた。ある冬の日、葉を落とした樹木を見つめつつ、思を巡らしていた。「この見るかげもない一本の木がやがて春が来ると、芽が出て、花が咲き、実を結ぶ。」このことに思い至ったとき、いと高き神の摂理と力とが深く魂に刻み込まれたという。そうだ、自分にはまだ希望があるのだと、悟ったのだ。(ブラザー・ローレンス「敬虔な生涯」)このように神は自然界の現象や思わぬ事柄を通して、声ならぬ声で私たちに語りかけてくださる。

神は夜空に輝く星によって、東方の博士たちにキリストの降誕を告げ知らせてくださった。また、冬の枯れ木によって、ブラザー・ローレンスに慰めを与えられた。同じように、神は時として私たちにも『意外な場所』で、『思いもしないやり方』で語ってくださるのではないだろうか。細きかすかな御声によって…。私たちはその語りかけを受け取り損ねることのないように、日々の生活を注意深く歩みたい。

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2024年01月12日

受け入れ難いことを受け入れる

 1210日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイによる福音書第1章1825節、テーマは「受け入れ難いことを受け入れる」。

 結婚前のマリヤの処女受胎を描いた箇所。私たちキリスト者は、処女であったマリアが聖霊によってイエスを身ごもったと信じている。しかし、この箇所に登場する渦中の人々にとって、これはにわかに信じられることではなかったはず。婚約者であるヨセフは、身に覚えのない事態に悩み苦しむ。日に日に大きくなるマリアのお腹を見て何を思ったのか?ユダヤの掟によると、姦通は死刑に値する。そこで、ヨセフは事を表沙汰にせず、内密に婚約を解消しようとする。マリアの命を救うために。ところが夢に天使が訪れ、マリヤの授かった子は聖霊によるものであり、憂いなくマリヤを妻として迎えるようにと告げる。眠りから覚めたヨセフは、天使のお告げに従い、マリヤと結婚してイエスの誕生を受け入れる。ヨセフはイエスの生みの親ではないが、育ての親となる。イエス誕生後にヨセフとマリヤは茨の道を進むことになる。それでも、ヨセフは、これが神から与えられた使命であり、自分に課せられた人生の課題であると信じて受け入れた。マリアの夫として、即ち幼きイエスの父として生きることを決意した。救い主キリストの誕生は、ヨセフの受容あってのこと。ヨセフは受け入れがたきを受け入れた。そうして、救い主は世に来られ、私たちは罪と滅びから救われたのだ。

 私たちが受け入れがたいことを受け入れるとき、それが誰かにとって救いとなり、慰めとなることもあるだろう。もし神が望まれることであれば、私たちは受け入れがたいことでも、平安の内に受け入れることができるだろう。神の恵みと助けによって。インマヌエルとは「神は私たちと共におられる」という意味(23節)。神は困難の道を歩んだヨセフとマリアと共にいてくださったように、私たちとも一緒にいてくださる。だから、恐れる必要はない。

 アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーによる「平安の祈り」をご存じだろうか。「神よ 変えることのできないものについて、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。変えることのできるものについては、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。そして、変えることのできないものと、変えることのできるものとを識別する知恵を与えたまえ」という祈りである。人生においてどうしても変えられない現実があるとしたら、それはきっと静かに受け入れるべきことではないだろうか。受け入れることによって、平安は得られるだろう。

 カトリック司祭のヘンリ・J.M.ナウウェンの著書「いまここに生きる」によれば「二人の人が同じ事故の犠牲になる。一方の人はそのことを恨み、もう一方の人はそのことに感謝の心を持つ。ある人は恨みがましくなり、もう一人は喜びに満ちる。恨んだ人の人生が、喜ぶ人の人生よりも厳しかったということではない。その人の内面でなされた選択、心の選択が異なったのだ」。過去は変えられない。しかし過去をどう見るかは変えられる。信仰の目が開かれるとき、物事は全く違って見えてくる。『わが目を開き給え』と祈りたい。


posted by take at 22:09| Comment(0) | 説教