リンク集

2024年05月01日

悔い改めにふさわしい愛の実を

1月7日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイによる福音書3章1〜12節。説教題は「悔い改めにふさわしい愛の実を」。

 毎年発行されている「日々の聖句(ローズンゲン)」に掲載されている「2024年の聖句」は「何事も愛をもって行いなさい」というコリントの信徒への手紙第一16章14節のことば。年頭にあたり、この言葉を神から与えられた今年の標語聖句として心に刻みたいと思っている。

 さて、マタイ3章は、キリストに先立って遣わされた預言者ヨハネの物語。「悔い改めてよ。天の国は近づいた」と語るヨハネのもとに人々は続々と集まった。ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授けていたが、それは罪の告白を伴うものであった。ヨハネの授けた洗礼(バプテスマ)は罪がゆるされるためであった。すると、そこにファリサイ派やサドカイ派の人々もやって来た。彼らはユダヤの宗教家で、旧約聖書の律法を重んじる人々であった。7節後半から12節はヨハネがこの人々に語ったことば。「毒蛇の子らよ」と最初に呼びかけているように、何とも穏やかではない。ここで特に注目したいのは「悔い改めにふさわしい実を結べ」という8節の言葉。さらに、10節には「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」という厳しい内容もあり、戸惑いを覚える。それにしても、「悔い改めの実を結べ」と言われると、どう思うだろうか?『いつまでも同じ過ちを繰り返していてはならない。もっとまじめなクリスチャンにならなければならない。もっと立派な信仰者にならなければ』と、そんな思いにさせられるかもしれない。しかし、注意したいのは、これらの言葉はファリサイ派やサドカイ派の人々に語られたということ。この人々は旧約の戒め、即ちユダヤの宗教的な決まり事をきちんと守ってきた。いわば、『まじめ』を絵に描いたような人たち。そんな彼らが一体、何を悔い改めたらいいのだろうか?

19世紀に活躍したアメリカのサム・ジョーンズという牧師は、ある時「いやしの集会」を開いた。これは、具体的な罪の行為を悔い改めて、新しい人生を歩み出すための、決意の集会であった。師は参加者に自分の罪の象徴となる物を持ち寄って、それらを廃棄することを呼びかけた。講壇の前にはギャンブルの道具や不倫相手の写真などが次々と積み上げられた。参加者は罪からの解放を味わい、喜びと平安に満たされた。すると、そこに、師のよく知った人が前に進み出た。それは、敬虔な女性信徒サラであった。「あなたは何を捨て去りたいのですか?」と驚くジョーンズ師に、彼女は答えた。「私は今まで何もしてこなかったのです。そのことを悔い改めたい」と。

 山上の垂訓の中でイエスは「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と説いた(マタイ7:12)。愛こそ律法の本質であると聖書は語る。そして、隣人を愛するとは、具体的には自分が人にしてもらいたいことを人にすることであると。私たちはまずキリストによって現わされた神の愛を精一杯に受け取りたい。そうしてこそ、私たちも受け取った愛を誰かに分け与えることができるだろう。人は愛されてこそ、愛することができる。私たちは神の愛という栄養分を吸収し、成長し、そうして隣人への愛という『実』を結ぶのである。

続きを読む
posted by take at 17:57| Comment(0) | 説教

2024年04月05日

主を待ち望む

 尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の元旦説教。聖書箇所はイザヤ書4027節〜31節。中心聖句は31節「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。

 アメリカ人のある女性宣教師は日本語を学び、日本語で聖書を読み、とても感心したという。なぜなら「待ち望む」という表現は、英語の聖書にはないからだ。英語では「wait for the Lord」となっていて、単に「主を待つ」という表現にしかならない。日本語の聖書に触れて初めて「wait for the Lord」とはただ主を待つことではなく、待ち望む!つまり、望みを持ちつつ待つことであると気づかされたという。

 預言者イザヤは紀元前8世紀に活躍した人。この頃のイスラエルは、アッシリアやバビロンによる侵略の脅威にさらされていた。イスラエルの人々は心を一つにして神により頼み、そのお言葉に従っていれば、守られたはず。ところが、彼らは偶像礼拝に走り、欲望のままに歩み、弱い人、貧しい人を虐げた。そのため、神はイスラエルを敵の手に渡すことになる。北イスラエルは前722年に滅亡。そしてユダ(南イスラエル)もバビロンの脅威にさらされ、都エルサレムは前587年に陥落。この時、多くの人がバビロンに連行され、捕囚となった。しかし、神はやがてイスラエルの人々をバビロン捕囚から解放することも予め約束された。イザヤ書とエレミア書にはイスラエル回復の預言が記されている。あなたがたはやがて解放される、救出さるという約束の言葉が囚われの地にあってイスラエルの民を慰め、希望を与えたに違いない。

 心理学者のビクトル・フランクルは著書「夜と霧」でナチス強制収容所における自らの体験を述べている。捕らえられ、極限状態に置かれながらも、心理学者としての冷静な目で仲間たちを観察した。それによると収容所で生き延びた人は、必ずしも身体の丈夫な人ではなかった。生き残ったのは、自分を待ってくれる家族や仕事があると信じた人。自分の未来を信じ、希望を失わなかった人が生き残ったというのだ。

待ち望むことは力である。待ち望む人は弱ることなく、疲れることなく、新たな力を得る。私たちは『神の時』を待ち望む。御業のなる時を待ち望む。祈りがついに答えられる時を待ち望むのである。私たちの神は時にかなった幸いな御業を行ってくださるお方だから。御心にかなった時に、御心にかなったやり方で、幸いな御業を行ってくださる。だから私たちは希望を捨てずにこのお方を待とう。

posted by take at 18:33| Comment(0) | 説教

2024年03月09日

ゆだねて眠る

大晦日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。聖書箇所はマタイによる福音書第2章1323節。説教題は「ゆだねて眠る」。

今日の箇所に登場するヘロデ王は、自らの地位を嬰児イエスに脅かされることを恐れた。そのため、イエスを殺そうとしたが、イエスの養父ヨセフは『夢のお告げ』によって難を逃れた。その後、ヘロデは国内の2歳以下の男児を虐殺したという。それにしても、ヨセフはよく夢を見た。少なくとも聖書に4回、もしくは5回その場面が出てくる。ということは、ヨセフはよく眠った人。ヘロデ王に追われながらも『よく眠れたな』と思う。自分だったら、あれこれ心配して眠れなかったことだろう。

旧約聖書の詩篇1272節でソロモン王は「空しいことだ  朝早く起き、夜遅く休み苦労してパンを食べる人々よ。主は愛する者には眠りをお与えになるのだから」と歌っている。神は私たちが眠っている間も働いておられる。だから眠ることは、神に全てを委ねること。神への信頼の行為と言える。とはいえ毎日の生活にはいろいろな課題がある。なかなか心休まらない時もあるだろう。でも、神さまは夢の中でヨセフに語りかけ、智恵を与えてくださった。神は必要ならば夢の中でさえ語ってくださる。だから、私たちは、夜になったら安心して眠っていいのだ。

漫画家の藤子不二雄Ⓐ先生の座右の銘は「明日にのばせることは今日するな」。子どもたちにはあまり教えたくないが、大人にとっては時として大切なこと。藤子不二雄Ⓐ先生がこのことばに出会ったのは、戦後、アメリカ映画を観た時のこと。映画の中で生命を狙われた主人公の語ったのがこの言葉だった。『これが日本とアメリカの違いか』と衝撃を受けたそう。マタイによる福音書第6章 34 節のイエスの言葉を思い出す。「だから、明日のことを思い患ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である」。 明日のことは、神さまと『明日の私』にお任せしよう。

さて、夢の中で神の御使い、即ち天使の知らせを受けたヨセフは家族を連れエジプトへ逃れる。身を隠していたが、ヘロデ王が没してから、再び夢の中で天使のお告げを受け、イスラエルに帰還する。

プロテスタント教会では天使について語られることは多くはない。しかし、聖書には天使の登場する箇所がいくつもあるので、私たちはその存在を無視する必要はない。詩篇第91 11節には「主はその使いたちに命じて あなたの全ての道を守られる」とある。ある牧師は誰かが手術を受ける時は、その人のため「神さま、天使を遣わしてこの方をお守りください」と祈るとのこと。そんな風に祈ってもらったら、どんなに心強いことか。だからと言って、私たちは天使に直接、何かを願うことはしない。天使を遣わしてくださる、神さまに祈るのである。

神は天使を遣わし、私たちの毎日の生活を守ってくださる。目に見えない天使を遣わすこともあれば、目に見える天使を遣わすことも。目に見える天使とは人のこと。神は身近な人や、時には見知らぬ人を送って、私たちを助けてくださる。そんな神さまの守り、助け、導きに感謝しつつ、この方を信頼して歩んでいきたい。

posted by take at 18:51| Comment(0) | 説教