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2024年01月31日

注意深く生きる

1217日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による待降節3週目の説教。聖書箇所はマタイによる福音書第2章112節で、テーマは「注意深く生きる」。

息子の幼児園では毎年クリスマスの時期になると、聖誕劇(イエス降誕の劇)が子どもたちによって演じられた。息子は東方の3人の博士のひとり、『もつ薬』を捧げた役であったが、これはまさに聖書のこの箇所に記された場面である。

東方から来たというこの博士たちは、ペルシャやバビロニアあたりからエルサレムまではるばる旅をして来たと言われている。そうだとしたら、そこはかつてユダヤの民が捕囚として捕らえられ、連れて行かれたところ。そのため、かつてユダヤ人とも接触のあったその地方の人々は、旧約聖書に伝えられたメシア預言(救い主 降臨の預言)を知っていたとも考えられる。先祖伝来、やがて来たるメシアについて聞かされていたのではないだろうか。

 それにしても、博士たちが星に導かれてエルサレムまでやって来たとは何とも不思議な話しに思える。夜空に輝く星を救い主の誕生と結びつけ、エルサレムまでやって来たとは!しかし、これは考えようによっては、それほど不思議ではないのかもしれない。神は生きておられ、全てを支配しておられると信じるならば、そんなに不思議なことではない。この世界と日常生活のあらゆる物事を通して、神は人に語りかけようとしておられるのだから。

17世紀の修道士であったブラザー・ローレンスは、元々は、兵士であった。しかし、若い頃に大けがをして、傷心でいた。ある冬の日、葉を落とした樹木を見つめつつ、思を巡らしていた。「この見るかげもない一本の木がやがて春が来ると、芽が出て、花が咲き、実を結ぶ。」このことに思い至ったとき、いと高き神の摂理と力とが深く魂に刻み込まれたという。そうだ、自分にはまだ希望があるのだと、悟ったのだ。(ブラザー・ローレンス「敬虔な生涯」)このように神は自然界の現象や思わぬ事柄を通して、声ならぬ声で私たちに語りかけてくださる。

神は夜空に輝く星によって、東方の博士たちにキリストの降誕を告げ知らせてくださった。また、冬の枯れ木によって、ブラザー・ローレンスに慰めを与えられた。同じように、神は時として私たちにも『意外な場所』で、『思いもしないやり方』で語ってくださるのではないだろうか。細きかすかな御声によって…。私たちはその語りかけを受け取り損ねることのないように、日々の生活を注意深く歩みたい。

posted by take at 16:28| Comment(0) | 説教

2024年01月12日

受け入れ難いことを受け入れる

 1210日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイによる福音書第1章1825節、テーマは「受け入れ難いことを受け入れる」。

 結婚前のマリヤの処女受胎を描いた箇所。私たちキリスト者は、処女であったマリアが聖霊によってイエスを身ごもったと信じている。しかし、この箇所に登場する渦中の人々にとって、これはにわかに信じられることではなかったはず。婚約者であるヨセフは、身に覚えのない事態に悩み苦しむ。日に日に大きくなるマリアのお腹を見て何を思ったのか?ユダヤの掟によると、姦通は死刑に値する。そこで、ヨセフは事を表沙汰にせず、内密に婚約を解消しようとする。マリアの命を救うために。ところが夢に天使が訪れ、マリヤの授かった子は聖霊によるものであり、憂いなくマリヤを妻として迎えるようにと告げる。眠りから覚めたヨセフは、天使のお告げに従い、マリヤと結婚してイエスの誕生を受け入れる。ヨセフはイエスの生みの親ではないが、育ての親となる。イエス誕生後にヨセフとマリヤは茨の道を進むことになる。それでも、ヨセフは、これが神から与えられた使命であり、自分に課せられた人生の課題であると信じて受け入れた。マリアの夫として、即ち幼きイエスの父として生きることを決意した。救い主キリストの誕生は、ヨセフの受容あってのこと。ヨセフは受け入れがたきを受け入れた。そうして、救い主は世に来られ、私たちは罪と滅びから救われたのだ。

 私たちが受け入れがたいことを受け入れるとき、それが誰かにとって救いとなり、慰めとなることもあるだろう。もし神が望まれることであれば、私たちは受け入れがたいことでも、平安の内に受け入れることができるだろう。神の恵みと助けによって。インマヌエルとは「神は私たちと共におられる」という意味(23節)。神は困難の道を歩んだヨセフとマリアと共にいてくださったように、私たちとも一緒にいてくださる。だから、恐れる必要はない。

 アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーによる「平安の祈り」をご存じだろうか。「神よ 変えることのできないものについて、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。変えることのできるものについては、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。そして、変えることのできないものと、変えることのできるものとを識別する知恵を与えたまえ」という祈りである。人生においてどうしても変えられない現実があるとしたら、それはきっと静かに受け入れるべきことではないだろうか。受け入れることによって、平安は得られるだろう。

 カトリック司祭のヘンリ・J.M.ナウウェンの著書「いまここに生きる」によれば「二人の人が同じ事故の犠牲になる。一方の人はそのことを恨み、もう一方の人はそのことに感謝の心を持つ。ある人は恨みがましくなり、もう一人は喜びに満ちる。恨んだ人の人生が、喜ぶ人の人生よりも厳しかったということではない。その人の内面でなされた選択、心の選択が異なったのだ」。過去は変えられない。しかし過去をどう見るかは変えられる。信仰の目が開かれるとき、物事は全く違って見えてくる。『わが目を開き給え』と祈りたい。


posted by take at 22:09| Comment(0) | 説教

2023年12月22日

信頼する者の力

11/19の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所は創世記第121020節。テーマは「信頼する者の力」。

カナンの地が飢饉に喘いだため、アブラハムたち一族はエジプトに身を寄せることとした。エジプトが近づいたとき、アブラハムは妻のサライにこう言った。「あなたが美しい女だということを私はよく知っている。エジプト人があなたを見れば、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなただけを生かしておくだろう。だからあなたは、自分のことを私の妹だと言ってほしいのだ。そうすれば、あなたのお陰で私は手厚くもてなされ、命は助かるだろう。」(1113節)

アブラハムの予想通り、サライの美しさはエジプト中で評判となり、国王はサライを召し入れた。しかし、神はこのことの故に、王とその宮廷に恐ろしい災いを下された。結局はサライがアブラハムの妻であることは、王に知られるところとなる。王はアブラハムに詰め寄りながらも、妻サライを返し、与えた財産と共に一行をエジプトから追放した。何とも後味の悪い話である。アブラハムは願った通り、命も守られ、財産も増し加わった。しかし、エジプトの国王らの前でとんだ恥をかいたのではないだろうか。本来、『祝福の基』であるはずのアブラハムがエジプトの国に『祝福』どころか『災い』をもたらし、とんだ迷惑をかけてしまった。どうしてこんなことになったのだろうか?

アブラハムは『相手は邪悪なエジプト人だから、こちらも嘘の一つぐらいつかないことには自分を守れない』とでも思ったのだろうか。しかし、エジプトの国王らは当初アブラハムが心配したほどには邪悪な人々ではなかったよう。アブラハムに対して『サライがあなたの妻だとわかっていたら、彼女を召し入れたりはしなかった』という旨を告げている。アブラハムは自分の頭の中で不安をつくり出し、このような愚かな過ちを犯したのではないだろうか。

 俗に「心配ごとの9割は起こらない」と言われる。確かに、日常生活や仕事において、『あれこれ心配したけど、結局そのことは起こらなかった』というのはよくある話し。むしろ予期せぬ問題が現れる。そうなると心配には意味がない。イザヤ書第3015節には「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」とある。これを新改訳では「落ち着いて信頼すれば、力を得る」。この場合、もちろん誰を信頼すべきかは神であり、キリストである。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ2820)と約束された復活のキリストを信頼する。

 しかし、もう一つ意外と大切なのは『人を信頼すること』。まわりはみんな鬼だと思っている人はどうしても自己防衛的になってしまう。自分を守ろうとするあまり、思わぬ過ちを犯すかもしれない。ノートルダム清心女子大の故・渡辺和子理事長(大ベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」著者)は「人格論」という授業の中で「人を98%信頼すること」を教えた。その理由として「人間は不完全なものであって、神ではない」。誰かを100%信頼すると、その人の僅かな過ちでもゆるせなくなる。何かあっても相手をゆるせるように、2%は取っておく。私たちは神を100%信頼し、まわりの人を98%信頼していれば、平安である。

posted by take at 17:33| Comment(0) | 説教