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2024年04月05日

主を待ち望む

 尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の元旦説教。聖書箇所はイザヤ書4027節〜31節。中心聖句は31節「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。

 アメリカ人のある女性宣教師は日本語を学び、日本語で聖書を読み、とても感心したという。なぜなら「待ち望む」という表現は、英語の聖書にはないからだ。英語では「wait for the Lord」となっていて、単に「主を待つ」という表現にしかならない。日本語の聖書に触れて初めて「wait for the Lord」とはただ主を待つことではなく、待ち望む!つまり、望みを持ちつつ待つことであると気づかされたという。

 預言者イザヤは紀元前8世紀に活躍した人。この頃のイスラエルは、アッシリアやバビロンによる侵略の脅威にさらされていた。イスラエルの人々は心を一つにして神により頼み、そのお言葉に従っていれば、守られたはず。ところが、彼らは偶像礼拝に走り、欲望のままに歩み、弱い人、貧しい人を虐げた。そのため、神はイスラエルを敵の手に渡すことになる。北イスラエルは前722年に滅亡。そしてユダ(南イスラエル)もバビロンの脅威にさらされ、都エルサレムは前587年に陥落。この時、多くの人がバビロンに連行され、捕囚となった。しかし、神はやがてイスラエルの人々をバビロン捕囚から解放することも予め約束された。イザヤ書とエレミア書にはイスラエル回復の預言が記されている。あなたがたはやがて解放される、救出さるという約束の言葉が囚われの地にあってイスラエルの民を慰め、希望を与えたに違いない。

 心理学者のビクトル・フランクルは著書「夜と霧」でナチス強制収容所における自らの体験を述べている。捕らえられ、極限状態に置かれながらも、心理学者としての冷静な目で仲間たちを観察した。それによると収容所で生き延びた人は、必ずしも身体の丈夫な人ではなかった。生き残ったのは、自分を待ってくれる家族や仕事があると信じた人。自分の未来を信じ、希望を失わなかった人が生き残ったというのだ。

待ち望むことは力である。待ち望む人は弱ることなく、疲れることなく、新たな力を得る。私たちは『神の時』を待ち望む。御業のなる時を待ち望む。祈りがついに答えられる時を待ち望むのである。私たちの神は時にかなった幸いな御業を行ってくださるお方だから。御心にかなった時に、御心にかなったやり方で、幸いな御業を行ってくださる。だから私たちは希望を捨てずにこのお方を待とう。

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2024年03月09日

ゆだねて眠る

大晦日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。聖書箇所はマタイによる福音書第2章1323節。説教題は「ゆだねて眠る」。

今日の箇所に登場するヘロデ王は、自らの地位を嬰児イエスに脅かされることを恐れた。そのため、イエスを殺そうとしたが、イエスの養父ヨセフは『夢のお告げ』によって難を逃れた。その後、ヘロデは国内の2歳以下の男児を虐殺したという。それにしても、ヨセフはよく夢を見た。少なくとも聖書に4回、もしくは5回その場面が出てくる。ということは、ヨセフはよく眠った人。ヘロデ王に追われながらも『よく眠れたな』と思う。自分だったら、あれこれ心配して眠れなかったことだろう。

旧約聖書の詩篇1272節でソロモン王は「空しいことだ  朝早く起き、夜遅く休み苦労してパンを食べる人々よ。主は愛する者には眠りをお与えになるのだから」と歌っている。神は私たちが眠っている間も働いておられる。だから眠ることは、神に全てを委ねること。神への信頼の行為と言える。とはいえ毎日の生活にはいろいろな課題がある。なかなか心休まらない時もあるだろう。でも、神さまは夢の中でヨセフに語りかけ、智恵を与えてくださった。神は必要ならば夢の中でさえ語ってくださる。だから、私たちは、夜になったら安心して眠っていいのだ。

漫画家の藤子不二雄Ⓐ先生の座右の銘は「明日にのばせることは今日するな」。子どもたちにはあまり教えたくないが、大人にとっては時として大切なこと。藤子不二雄Ⓐ先生がこのことばに出会ったのは、戦後、アメリカ映画を観た時のこと。映画の中で生命を狙われた主人公の語ったのがこの言葉だった。『これが日本とアメリカの違いか』と衝撃を受けたそう。マタイによる福音書第6章 34 節のイエスの言葉を思い出す。「だから、明日のことを思い患ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である」。 明日のことは、神さまと『明日の私』にお任せしよう。

さて、夢の中で神の御使い、即ち天使の知らせを受けたヨセフは家族を連れエジプトへ逃れる。身を隠していたが、ヘロデ王が没してから、再び夢の中で天使のお告げを受け、イスラエルに帰還する。

プロテスタント教会では天使について語られることは多くはない。しかし、聖書には天使の登場する箇所がいくつもあるので、私たちはその存在を無視する必要はない。詩篇第91 11節には「主はその使いたちに命じて あなたの全ての道を守られる」とある。ある牧師は誰かが手術を受ける時は、その人のため「神さま、天使を遣わしてこの方をお守りください」と祈るとのこと。そんな風に祈ってもらったら、どんなに心強いことか。だからと言って、私たちは天使に直接、何かを願うことはしない。天使を遣わしてくださる、神さまに祈るのである。

神は天使を遣わし、私たちの毎日の生活を守ってくださる。目に見えない天使を遣わすこともあれば、目に見える天使を遣わすことも。目に見える天使とは人のこと。神は身近な人や、時には見知らぬ人を送って、私たちを助けてくださる。そんな神さまの守り、助け、導きに感謝しつつ、この方を信頼して歩んでいきたい。

posted by take at 18:51| Comment(0) | 説教

2024年02月14日

飼い葉桶の中の救い主

  尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の12/24説教。この日の説教はルカによる福音書第2114節から、説教題は「飼い葉桶の中の救い主」。

 イエスの降誕は2000年以上前の人目につかない場所でのこと。「飼い葉桶」ということばが聖書に出てくることから「馬小屋で生まれた」と言われることがある。しかしその頃の馬は軍隊に用いられたり、高貴な人たちの乗り物であったようで、一般的ではなかった。イエスの生まれた場所は、ロバや羊が飼われた家畜小屋であったと思われる。小屋と言っても洞窟のようなところで、動物の匂いに満ちた空間であった。神の御子がなぜそのような場所で産声を上げなければならなかったのか。神の御子なら神の御子らしく、王の宮殿や大金持ちのお屋敷で生まれてもよさそうなものなのに…。

 実は、その頃、人口登録のため、人々は各自、出身地に帰るようにというお達しが下されていた。そのため、ヨセフも産気づいていた妻マリアを連れて、ナザレからベツレヘムに旅をしなければならなかった。ところが、人々が一斉に移動したためか、町に入っても、宿はどこも一杯。この若き夫婦に部屋を提供してくれる家はなかったようだ。ようやく、ふたりはある家主のお情けによって、家畜小屋のような所に泊めてもらえたというわけだ。

 もう何年も前になるが、クリスマスの時期、さる年配の女性牧師が教会学校の子どもたちにこんなお話をされたことを思い出す。「もしもイエスさまが宮殿や立派なお屋敷で産まれたら、貧しい人や身分の低い人はお祝いに行くことができなかったでしょう。だけど、家畜小屋なら誰でも、どんな人でも訪ねることができます。どんなに貧しくても身分が低くても家畜小屋なら行けるのです」と。子どもたちといっしょに聞いたこの年配牧師の言葉が今でも忘れられない。

神のみ使いが、最初にキリストの降臨を告げ知らせた相手は羊飼いたち。この頃の羊飼いという仕事は、今で言う3K(きつい、汚い、危険)。決して人々が憧れるような職業ではなかった。それでも、社会においてはなくてはならない必要な仕事。誰かがやらなければならなかった。つまり、羊飼いたちは社会の片隅で苦労しながら生きていた人たち。そんな彼らに救い主の降誕は真っ先に知らされたのだ。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」とみ使いは羊飼いたちに告げ知らせた(1011節)。救い主キリストは「あなたがたのためにお生まれになった」と。

 羊飼いのように社会の片隅で苦労している人、人々から見捨てられた人、あまり注目されることない人。そして、人生の悲しみや苦しみを知っている人。そういう人のために、今からおよそ2000年前、神の御子キリストは来てくださった。飼い葉桶に寝ている乳飲み子が「あなたがたへのしるしである」と天使は言う。何のしるし?神はあなたを見捨てない、どんな人でも神の愛からもれてはいないという『しるし』である。


posted by take at 14:54| Comment(0) | 説教