1/21 の尾久キリスト教会での広瀬邦彦先生の説教。この日の題材は創世記第 14 章 1〜16節。タイトルは「神の愛は自業自得を乗り越える」。自業自得とはもともと仏教用語で「自分の行為の結果を自分が得る」という意味だが、否定的なニュアンスで使われる場合がほとんど。
創世記第 14 章は諸王の名が入り乱れる箇所だが、当時の状況から解説すると言わば『 東軍 vs.西軍』の戦いと言える。かたや東軍はメソポタミア連合軍、一方の西軍はソドム・ゴモラ方面軍。この戦いに、前章でアブラハムと道を分かったロトが、東軍から掠奪捕縛されるという災難に巻き込まれる。しかし叔父であるアブラハムが危険を顧みずに救出してくれた。
思えば前章で道を分かつ際、年長者であったアブラハムが寛大にも年若きロトに目的地を先に選ぶ権利を譲った。ロトが自分たちの生活の場として選んだのはソドムの肥沃な地。ロトは遠慮会釈なしに自分たちの生活のために良く栄えた低地を選び、アブラハムはそれに甘んじた。そんなロトが今や自らの選択のため、危機的な状況に陥っている。まさに、自業自得!にもかかわらず、アブラハムは命の危険を冒してまでロトとその一族を救い出したのだ。私たちはこのようなアブラハムの自己犠牲的な姿に、キリストの愛を感じる。それは、自業自得を乗り越えた大いなる愛である。ロトは神のあわれみによって、命を救われ、危機的状況を脱することができた。その後、彼の生き方は変わったのだろうか?私たちにはわからない。しかし、命を救われた者は、神への感謝をもって、新たな人生へと導かれる。
先日の祈祷会にてオンラインで公開された石川県輪島市にある某教会の礼拝説教を皆で聴いた。今年の元旦、能登半島地震の被害に遭われた教会である。牧師の A 先生は、震災後の状況を語られた。家族と無事を喜び合って、お互いを抱擁し合ったという。そしてマタイ福音書 6 章 25 節を引用しつつ、生かされていることの幸いを力強く語られた。この時点では未だ上下水道は使えず、コロナやインフルエンザの流行が心配される状況であった。それでも「不謹慎な言い方かもしれないが、私は今、幸せです」と語られた。「今この街には、お互いを労り合う空気が満ち満ちています。自分のことよりも人のことを優先する。そんな新しい常識がこの街では息づいています。救援に来てくれた自衛隊や警官の方々に ありがとうございます』と語りかけると、最敬礼で応えてくれます。これも災害に遭ったわれわれに対する神の恵み。それに応えて歩いてゆきたい」と。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタイ 6章25節)。ロトは神のあわれみによって、命辛々に救われた。死んでいてもおかしくなかったのに…。生かされている恵みを知った人は、生き方が変わる。変わるように招かれている。キリストにより罪と滅びから救われた私たちも神の無償の愛に応える歩みをしていきたい。
リンク集
2024年06月19日
神の愛は自業自得を乗り越える
posted by take at 17:45| Comment(0)
| 説教
2024年05月31日
キリストの洗礼と、私たちの洗礼
1月14日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイ福音書第3章13節から17節。「キリストの洗礼と、私たちの洗礼」。
これは30歳になったイエスが、バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けるシーン。ヨハネが人々に授けていた洗礼は、罪の悔い改めを伴った。罪がゆるされるための洗礼であった。ところが、イエスは罪の全くないきよいお方。罪のないイエスが、罪がゆるされるための洗礼を受けるのは矛盾ではないか。ヨハネはイエスに洗礼を授けることを躊躇する。それでも、イエスはヨハネから洗礼を受けられた。それは罪のないイエスが、罪人である私たちと同じ立場に立ってくださったことを意味している。やがてこのお方は私たちの罪を背負って十字架で死なれる。つまり、イエスはこの時、十字架への道を歩み始められたのだ。
イエスの洗礼後に聞こえた天からの声は、まさに神さまの声だった。それはイエスが、父なる神の愛する子であるということ。これこそがイエスの真の姿である。私たちがキリストを信じて洗礼を受けるとき、私たちもイエスの立場に立たせて頂ける。つまり、罪のある私たちが罪をゆるされて、神の子どもとして頂けるのだ。キリストを通して天の父は私たち一人ひとりにも語りかけてくださる。「あなたは私の愛する子」と。
宗教改革の担い手だったマルチン・ルターの人生は戦いの連続だった。それゆえに体調の不調に悩まされることも多かった。不眠、眩暈、便秘、鬱症状‥。ルターの部屋の壁にはインクの染みがある。これは悪魔が、執筆中のルターを訪れた際に、ルターが悪魔にインクの壺を投げた跡と言われる。その際にルターは、額に手をやって「私は洗礼を受けている、私は洗礼を受けている」と自らに言い聞かせたという。このように、洗礼は私たちが罪ゆるされ、神さまに愛されている神の子どもであるという印である。
今回の箇所に続く、マタイ福音書第4章では、イエスは荒れ野で悪魔の試みを受けられる。これが人生である。神の愛の御声を聞く喜びの時もあれば、荒れ野をさ迷うような試練の時もある。しかし、そんな時こそ、私たちは思い出したい。キリストを信じ、洗礼を受けた私たちは、神の子である。神は決してあなたを見捨てない。
これは30歳になったイエスが、バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けるシーン。ヨハネが人々に授けていた洗礼は、罪の悔い改めを伴った。罪がゆるされるための洗礼であった。ところが、イエスは罪の全くないきよいお方。罪のないイエスが、罪がゆるされるための洗礼を受けるのは矛盾ではないか。ヨハネはイエスに洗礼を授けることを躊躇する。それでも、イエスはヨハネから洗礼を受けられた。それは罪のないイエスが、罪人である私たちと同じ立場に立ってくださったことを意味している。やがてこのお方は私たちの罪を背負って十字架で死なれる。つまり、イエスはこの時、十字架への道を歩み始められたのだ。
イエスの洗礼後に聞こえた天からの声は、まさに神さまの声だった。それはイエスが、父なる神の愛する子であるということ。これこそがイエスの真の姿である。私たちがキリストを信じて洗礼を受けるとき、私たちもイエスの立場に立たせて頂ける。つまり、罪のある私たちが罪をゆるされて、神の子どもとして頂けるのだ。キリストを通して天の父は私たち一人ひとりにも語りかけてくださる。「あなたは私の愛する子」と。
宗教改革の担い手だったマルチン・ルターの人生は戦いの連続だった。それゆえに体調の不調に悩まされることも多かった。不眠、眩暈、便秘、鬱症状‥。ルターの部屋の壁にはインクの染みがある。これは悪魔が、執筆中のルターを訪れた際に、ルターが悪魔にインクの壺を投げた跡と言われる。その際にルターは、額に手をやって「私は洗礼を受けている、私は洗礼を受けている」と自らに言い聞かせたという。このように、洗礼は私たちが罪ゆるされ、神さまに愛されている神の子どもであるという印である。
今回の箇所に続く、マタイ福音書第4章では、イエスは荒れ野で悪魔の試みを受けられる。これが人生である。神の愛の御声を聞く喜びの時もあれば、荒れ野をさ迷うような試練の時もある。しかし、そんな時こそ、私たちは思い出したい。キリストを信じ、洗礼を受けた私たちは、神の子である。神は決してあなたを見捨てない。
posted by take at 10:00| Comment(0)
| 説教
2024年05月01日
悔い改めにふさわしい愛の実を
1月7日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイによる福音書3章1〜12節。説教題は「悔い改めにふさわしい愛の実を」。
毎年発行されている「日々の聖句(ローズンゲン)」に掲載されている「2024年の聖句」は「何事も愛をもって行いなさい」というコリントの信徒への手紙第一16章14節のことば。年頭にあたり、この言葉を神から与えられた今年の標語聖句として心に刻みたいと思っている。
さて、マタイ3章は、キリストに先立って遣わされた預言者ヨハネの物語。「悔い改めてよ。天の国は近づいた」と語るヨハネのもとに人々は続々と集まった。ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授けていたが、それは罪の告白を伴うものであった。ヨハネの授けた洗礼(バプテスマ)は罪がゆるされるためであった。すると、そこにファリサイ派やサドカイ派の人々もやって来た。彼らはユダヤの宗教家で、旧約聖書の律法を重んじる人々であった。7節後半から12節はヨハネがこの人々に語ったことば。「毒蛇の子らよ」と最初に呼びかけているように、何とも穏やかではない。ここで特に注目したいのは「悔い改めにふさわしい実を結べ」という8節の言葉。さらに、10節には「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」という厳しい内容もあり、戸惑いを覚える。それにしても、「悔い改めの実を結べ」と言われると、どう思うだろうか?『いつまでも同じ過ちを繰り返していてはならない。もっとまじめなクリスチャンにならなければならない。もっと立派な信仰者にならなければ』と、そんな思いにさせられるかもしれない。しかし、注意したいのは、これらの言葉はファリサイ派やサドカイ派の人々に語られたということ。この人々は旧約の戒め、即ちユダヤの宗教的な決まり事をきちんと守ってきた。いわば、『まじめ』を絵に描いたような人たち。そんな彼らが一体、何を悔い改めたらいいのだろうか?
19世紀に活躍したアメリカのサム・ジョーンズという牧師は、ある時「いやしの集会」を開いた。これは、具体的な罪の行為を悔い改めて、新しい人生を歩み出すための、決意の集会であった。師は参加者に自分の罪の象徴となる物を持ち寄って、それらを廃棄することを呼びかけた。講壇の前にはギャンブルの道具や不倫相手の写真などが次々と積み上げられた。参加者は罪からの解放を味わい、喜びと平安に満たされた。すると、そこに、師のよく知った人が前に進み出た。それは、敬虔な女性信徒サラであった。「あなたは何を捨て去りたいのですか?」と驚くジョーンズ師に、彼女は答えた。「私は今まで何もしてこなかったのです。そのことを悔い改めたい」と。
山上の垂訓の中でイエスは「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と説いた(マタイ7:12)。愛こそ律法の本質であると聖書は語る。そして、隣人を愛するとは、具体的には自分が人にしてもらいたいことを人にすることであると。私たちはまずキリストによって現わされた神の愛を精一杯に受け取りたい。そうしてこそ、私たちも受け取った愛を誰かに分け与えることができるだろう。人は愛されてこそ、愛することができる。私たちは神の愛という栄養分を吸収し、成長し、そうして隣人への愛という『実』を結ぶのである。
続きを読む
毎年発行されている「日々の聖句(ローズンゲン)」に掲載されている「2024年の聖句」は「何事も愛をもって行いなさい」というコリントの信徒への手紙第一16章14節のことば。年頭にあたり、この言葉を神から与えられた今年の標語聖句として心に刻みたいと思っている。
さて、マタイ3章は、キリストに先立って遣わされた預言者ヨハネの物語。「悔い改めてよ。天の国は近づいた」と語るヨハネのもとに人々は続々と集まった。ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授けていたが、それは罪の告白を伴うものであった。ヨハネの授けた洗礼(バプテスマ)は罪がゆるされるためであった。すると、そこにファリサイ派やサドカイ派の人々もやって来た。彼らはユダヤの宗教家で、旧約聖書の律法を重んじる人々であった。7節後半から12節はヨハネがこの人々に語ったことば。「毒蛇の子らよ」と最初に呼びかけているように、何とも穏やかではない。ここで特に注目したいのは「悔い改めにふさわしい実を結べ」という8節の言葉。さらに、10節には「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」という厳しい内容もあり、戸惑いを覚える。それにしても、「悔い改めの実を結べ」と言われると、どう思うだろうか?『いつまでも同じ過ちを繰り返していてはならない。もっとまじめなクリスチャンにならなければならない。もっと立派な信仰者にならなければ』と、そんな思いにさせられるかもしれない。しかし、注意したいのは、これらの言葉はファリサイ派やサドカイ派の人々に語られたということ。この人々は旧約の戒め、即ちユダヤの宗教的な決まり事をきちんと守ってきた。いわば、『まじめ』を絵に描いたような人たち。そんな彼らが一体、何を悔い改めたらいいのだろうか?
19世紀に活躍したアメリカのサム・ジョーンズという牧師は、ある時「いやしの集会」を開いた。これは、具体的な罪の行為を悔い改めて、新しい人生を歩み出すための、決意の集会であった。師は参加者に自分の罪の象徴となる物を持ち寄って、それらを廃棄することを呼びかけた。講壇の前にはギャンブルの道具や不倫相手の写真などが次々と積み上げられた。参加者は罪からの解放を味わい、喜びと平安に満たされた。すると、そこに、師のよく知った人が前に進み出た。それは、敬虔な女性信徒サラであった。「あなたは何を捨て去りたいのですか?」と驚くジョーンズ師に、彼女は答えた。「私は今まで何もしてこなかったのです。そのことを悔い改めたい」と。
山上の垂訓の中でイエスは「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と説いた(マタイ7:12)。愛こそ律法の本質であると聖書は語る。そして、隣人を愛するとは、具体的には自分が人にしてもらいたいことを人にすることであると。私たちはまずキリストによって現わされた神の愛を精一杯に受け取りたい。そうしてこそ、私たちも受け取った愛を誰かに分け与えることができるだろう。人は愛されてこそ、愛することができる。私たちは神の愛という栄養分を吸収し、成長し、そうして隣人への愛という『実』を結ぶのである。
続きを読む
posted by take at 17:57| Comment(0)
| 説教