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2024年10月04日

ヨハネによる福音書第19章28節「 渇く」

尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による3月10日の説教は、ヨハネによる福音書第19章28節より、説教題は「 渇く」。これは受難節(レント)におけるキリストの7つのことばのうち5つめ。
十字架上で苦しみの極致にあったイエスは、自らの渇きを訴えられた。「渇く」と言われたイエスの言葉について、ある説教者は これは神から見放された『霊的な渇き』」と表現した。確かに、そうかもしれない。しかし、私たちは神の御子は『まことの人』としてこの世に来られたことを忘れてはならない。初期ローマ教会では、異端とされたグノーシス派が「イエスは神であるから、その肉体は幻である」と述べたという。しかし、いつの時代も正統的なキリスト教会は「キリストはまことの神であり、同時にまことの人である」と告白してきた。私たちと全く同じ生身の体を持っておられたイエスは『肉体の苦痛』と決して無縁ではなかった。磔刑にされたイエスは、人間としての弱さや痛みをどれほど味わわれたことだろう。新聖歌209番「慈しみ深き」には、私たちの悩みや苦しみに寄り添ってくださるイエスの姿が歌われている。
八分音符慈しみ深き 友なるイエスは
八分音符われらの弱きを 知りて憐れむ
八分音符悩み悲しみに 沈めるときも
八分音符祈りに応えて 慰めたまわん
私を信仰に導いてくれた母の晩年は病との闘いの日々であった。息を引き取る直前には、医師によると、全力でマラソンを走っているような苦しみだった。そんな母を私たち家族はこの賛美歌を歌って見送った。まさに母の弱さ苦しみをも知ってくださるイエスが、その弱さの中にも共にいてくださったと信じている。人として十字架の苦しみを受けられたイエスだからこそ、私たちのいかなる苦しみの中にも共にいてくださる。肉体的な痛みも、精神的な苦しみも。それらの痛み苦しみを共に担ってくださり、その身に引き受けてくださるのだ。慈しみ深き友なるイエスは、われらの弱きを知りて憐れむ!
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2024年09月13日

わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか

尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による 3 月 3 日の説教は、 マタイによる福音書第 27 章45〜46 節から。 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」 (46 節) 。十字架上のキリストの 7 つのことばのうち4つめで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 (ヘブル語)という叫び。磔((はりつけ) にされたイエスのことばのうちで、 内容的にもクライマックスといえる言葉である。

キリスト教作家の三浦綾子先生は、 初めてこの部分を読んだときについて、 「がっかりした、失望した。これが神の子の言葉か」という感想を書いている。たしかに、私も最初これを読んだとき「キリストらしくない言葉」と違和感を覚えた。それまでは自らを処刑する人々の罪の赦しを願っていたのに、 ここにきて唐突に神への嘆きが述べられている。一体これを私たちはどのように受け取ったらいいのだろうか?

この下りを3つの観点で考察したい。 第一に、これは私たちの罪を負われたキリストの言葉であったということ。三浦綾子先生の先ほどの言葉は信仰を持つ前のもので、その当時、イエスの死は自分とは無関係であると思っていた。しかし自分の罪に気づいてからは、その言葉の意味は「身代わりの死」に変わる。 本当に見捨てられるべきは私だった。私たちだった。それなのに、イエスが私たちの罪をその身に負って十字架につけられ、血潮を流し、命を投げ出してくださった。いわば、この私に代わって叫ばれたのが、 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉であったのだ。

第二にキリストは苦しむ私たちと共にあり連帯してくださるということ。この世界には「なぜどうして?」と神に問いたくなる現実が多くある。 自分自身の罪で苦しむ場合もあれば、人の罪によって苦しめられることもあるだろう。また、罪とは直接関係なくても、例えば災害などによって苦しむことも。 イエスの叫びは詩篇第 22 編を引用していると言われる。詩篇には「嘆きの詩篇」 と呼ばれる箇所が多くある。 それは、 私たちの嘆き悲しみを訴えることのできる神がいてくださるということ。いくら不条理なことであっても全てをキリストが、 受け止めてくださり、苦難の中にも共にいてくださる。なせなら、このお方は十字架の上で誰よりも不条理な目に遭われたのだから。

第三にキリストの十字架ゆえに、私たちは神さまに見捨てられることはないということ。マタイによる福音書第 16 章 24 節で、 キリストは「自分を捨て、 自分の十字架を負って、 私に従いなさい」と述べられている。加藤常昭牧師の本に、 ドイツからいらしたバーン・アルト・ブッシュ先生に、ある学生が「キリストの十字架と、 私たちの十字架はどう違いますか?」と質問したとある。それに対して先生は「キリストの十字架の苦しみは既に終わっている」と答えられたという。 つまり、 キリストが私たちのために十字架で苦しみを受けてくださり、たとえ一時とは言え、 父なる神さまから見捨てられる体験をしてくださった。そうであれば、イエスに頼る私たちはもはや神に見捨てられることはないということである。私たちはもはやあれほどの深い絶望を体験する必要はなく、むしろどんな時でも神が共にいてくださると確信できる。

聖書によると、 イエスの十字架刑は午前9時から午後3時まで6時間を要している。 長時間の苦しみに耐えなければならない凄惨な状況だった。 後半の3時間、 太陽は隠れ、 暗闇となった。しかし闇はいつまでも続いたわけではなく、やがては晴れたのである。 私たちも神を遠くに感じる、 暗闇の時を経験することがあるかもしれない。でも、それはいつまでも続くのではない。 やがて再び太陽は輝く。それは、 十字架の苦しみを超えたところに、復活の喜びがあるのと同じである。
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2024年07月28日

ヨハネによる福音書第19章25〜27節「あなたの子です。あなたの母です」

2月25日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。ヨハネによる福音書第19章25〜27節より、説教題は「あなたの子です。あなたの母です」。十字架上の7つのことばの3つ目。十字架には公開処刑という意味合いがあった。その残酷な光景を近くで見守っていた母マリアは一体どのような思いだったのだろう。このマリアの悲しみをさえイエスは十字架上で引き受けられたに違いない。
ここでイエスは二つのことばを語られている。一つはマリアに「これは(ヨハネは)あなたの子です」、もう一つはヨハネに「これは(マリアは)あなたの母です」と。マリアの夫ヨセフは既に亡くなっており、イエスは残された母を弟子のヨハネに託された。ヨハネはマリアを自分の家に引き取った。ヨハネが一方的にマリアを保護していたのかと言えば、必ずしもそうではないだろう。弟子の中でも最も若かったと言われるヨハネにとって、イエスの処刑はことさらにショックだったはず。きっとマリアの存在はヨハネにとっても慰めとなったことだろう。ふたりは本当の親子のようにお互いを支え合ったのではないだろうか。晩年のマリアはヨハネとともに、エペソで暮らしたと言われている。キリストの十字架のもとに新しい家族関係が生まれたのだ。
10年ほど前に奉仕していた教会で「親子の会」を運営していた。近隣の子どもたちとその保護者を招いて、一緒に遊ぶ場を提供した。これに参加したあるお母さんが「教会の皆さんは、親戚づきあいをされているように、仲がいいのですね」と感心していた。教会は神の家族である。十字架の贖いによって、罪ゆるされた私たちは神を天の父と呼び、イエスを長兄として崇め、お互いを兄弟姉妹として仕え合う。神の家族である私たちに、キリストは「新しい戒めを与える」とヨハネ福音書13章34節で言われた。その戒めとは「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」主がゆるしてくださったように、互いにゆるし合い。主が仕えてくださったように互いに仕え合う。それこそが神の家族としての教会の姿である。
 さて、聖書によると、イエスは聖霊によってマリアより生まれ、大工ヨセフの息子として成長された。その家庭生活がどのようなものであったか、ほとんど語られていない。しかしルカ福音書第2章後半にはイエスの少年時代に関する叙述がある。そこでは『イエスはヨセフとマリアに仕えた』とある。30歳になってからは、公の宣教活動を始められたが、その間にも、ご自分の母や弟や妹たちのことを覚えておられたにちがいない。そうして、最後にはご自分がこの世を去った後の母マリアのことを配慮され、ヨハネに母を託された。私たちはこのようなイエスの姿に従うようにと招かれている。
わが家にはカッティングボード(小さなまな板)がある。そこには「台所の祈り」が書かれている。『主よ、私の小さな台所を祝福してください。お料理をするときも、お皿を洗っているときも、私の心をいつも喜びで満たし続けてください。あなたの祝福を、私の家族みなでいただくことができますように。そして、あなたが再びおいでになるときの心備えができますように。アーメン』 
家庭の主婦が家族を想いつつ喜びをもって家事をすることができるようにと。そんなお祈りだろうか。(もちろん、家事をするのは妻だけとは限らない)。私たちが毎日の平凡な暮らしの中で家族を愛し、家族に仕えること。これもまた、キリストに従う歩みの大切な一部分であることを私たちは覚えたいと思う。

posted by take at 00:42| Comment(0) | 説教