尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による 3 月 3 日の説教は、 マタイによる福音書第 27 章45〜46 節から。 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」 (46 節) 。十字架上のキリストの 7 つのことばのうち4つめで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 (ヘブル語)という叫び。磔((はりつけ) にされたイエスのことばのうちで、 内容的にもクライマックスといえる言葉である。
キリスト教作家の三浦綾子先生は、 初めてこの部分を読んだときについて、 「がっかりした、失望した。これが神の子の言葉か」という感想を書いている。たしかに、私も最初これを読んだとき「キリストらしくない言葉」と違和感を覚えた。それまでは自らを処刑する人々の罪の赦しを願っていたのに、 ここにきて唐突に神への嘆きが述べられている。一体これを私たちはどのように受け取ったらいいのだろうか?
この下りを3つの観点で考察したい。 第一に、これは私たちの罪を負われたキリストの言葉であったということ。三浦綾子先生の先ほどの言葉は信仰を持つ前のもので、その当時、イエスの死は自分とは無関係であると思っていた。しかし自分の罪に気づいてからは、その言葉の意味は「身代わりの死」に変わる。 本当に見捨てられるべきは私だった。私たちだった。それなのに、イエスが私たちの罪をその身に負って十字架につけられ、血潮を流し、命を投げ出してくださった。いわば、この私に代わって叫ばれたのが、 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉であったのだ。
第二にキリストは苦しむ私たちと共にあり連帯してくださるということ。この世界には「なぜどうして?」と神に問いたくなる現実が多くある。 自分自身の罪で苦しむ場合もあれば、人の罪によって苦しめられることもあるだろう。また、罪とは直接関係なくても、例えば災害などによって苦しむことも。 イエスの叫びは詩篇第 22 編を引用していると言われる。詩篇には「嘆きの詩篇」 と呼ばれる箇所が多くある。 それは、 私たちの嘆き悲しみを訴えることのできる神がいてくださるということ。いくら不条理なことであっても全てをキリストが、 受け止めてくださり、苦難の中にも共にいてくださる。なせなら、このお方は十字架の上で誰よりも不条理な目に遭われたのだから。
第三にキリストの十字架ゆえに、私たちは神さまに見捨てられることはないということ。マタイによる福音書第 16 章 24 節で、 キリストは「自分を捨て、 自分の十字架を負って、 私に従いなさい」と述べられている。加藤常昭牧師の本に、 ドイツからいらしたバーン・アルト・ブッシュ先生に、ある学生が「キリストの十字架と、 私たちの十字架はどう違いますか?」と質問したとある。それに対して先生は「キリストの十字架の苦しみは既に終わっている」と答えられたという。 つまり、 キリストが私たちのために十字架で苦しみを受けてくださり、たとえ一時とは言え、 父なる神さまから見捨てられる体験をしてくださった。そうであれば、イエスに頼る私たちはもはや神に見捨てられることはないということである。私たちはもはやあれほどの深い絶望を体験する必要はなく、むしろどんな時でも神が共にいてくださると確信できる。
聖書によると、 イエスの十字架刑は午前9時から午後3時まで6時間を要している。 長時間の苦しみに耐えなければならない凄惨な状況だった。 後半の3時間、 太陽は隠れ、 暗闇となった。しかし闇はいつまでも続いたわけではなく、やがては晴れたのである。 私たちも神を遠くに感じる、 暗闇の時を経験することがあるかもしれない。でも、それはいつまでも続くのではない。 やがて再び太陽は輝く。それは、 十字架の苦しみを超えたところに、復活の喜びがあるのと同じである。
posted by take at 20:20|
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