4月21日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日のテーマは、コリントの信徒への手紙一 第15章12〜28節より、「キリストの復活と私たちの復活」。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は無意味なものとなり、あなたがたは今もなお罪の中にいることになる」 (17節)。ここで言う「無意味」とは、復活がなければ、イエスは死なれただけの存在となり、結局は悪の勝利になってしまうということ。しかし、イエスは復活されたので、ご自身が神の御子であり、救い主であることが示された。
説教の中で紹介された、あるキリスト教系の大学でのエピソード キャンパスで守衛さんが聖書を読んでいると、通りかかった聖書科の教授が「どこを読んでいるのですか?」と尋ねた。守衛さんが 「ヨハネの黙示録です」と答えると、教授は「難しい箇所ですね。読んでいてわかりますか?」と。すると、守衛さんは「はい、わかります!最後にはイエス様が勝つと書いてあります」と答えたという。これが聖書のメッセージの核心である。最後には、キリストが勝つ。それだから、命が死に、光が闇に、愛が憎しみに勝利する。振り返ってみると、アダムとエバの罪によって人は死ぬ運命にあったが、キリストの十字架と復活によって、私たちは罪ゆるされ、死に打ち勝つ者とさせられた。神はこのキリストを信じる者に、死をも乗り越える永遠の命を与えると聖書は語る。 「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました」 (20節)。『初穂』とは、畑にできた最初の収穫物のことで、イスラエルでは神への捧げ物や収穫の前兆とされてきた。リビングバイブルではこの節をわかりやすく、次のように訳す。「しかし事実、キリストさまは死人の中から復活しました。そして、復活が約束されている何千万何百万もの人の、復活第一号となられたのです」。キリストは復活第一号!そして、信じる私たちも、このお方に続くのである。
また、説教では、数年前の小学生キャンプの思い出も語られた。ある少年が羽化寸前の蝉の幼虫を捕まえ、その決定的な瞬間を見守った。蝉の幼虫の抜け殻はよく見かけるが、羽化の瞬間を間近で見ることは稀。子どもたちも大人たちも息をつめて見守り、羽化を終えた蝉が飛び立つ姿に感動した。地中で暮らす幼虫と、羽化して青空を飛び回る成虫。まるで別世界に生きる生物であるが、両者には確かに『連続性』がある。私たちも今はこの世の命を生きている。しかし、やがてキリストの再臨と御国の到来によって、復活の命と復活の体をいただく時が来る。その時、羽化した蝉が自由に青空を飛び回るように、私たちもこの世の痛みや苦しみから全く解放される。キリストの死と復活によって、信じる私たちにも永遠の命の希望が与えられていることを覚えたい。
リンク集
2025年12月07日
コリントの信徒への手紙一 第15章12〜28節「キリストの復活と私たちの復活」。
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2025年10月11日
ヨハネによる福音書第20章24〜29節「長所と短所は紙一重」
2024年4月14日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はヨハネによる福音書第20章24〜29節「長所と短所は紙一重」。
人の性格は十人十色である。そして長所と短所は紙一重、長所が短所でもあり、短所が長所でもあり得る。せっかちな人は決断が早く、頑固な人は信念があり、面倒くさがりな人は合理的で、優柔不断な人は慎重で、協調性のない人は主体性に富み、飽きっぽい人は好奇心が旺盛である。キリストの弟子たちの中でも、トマスは疑り深い人であったと言われる。彼はイエスが復活して弟子たちと再会した際、一人だけ不在だった。主の復活を語る弟子たちに「復活などあり得ない」と反駁。25節では、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」と言っている。「決して信じない」とは強い言葉である。
しかし、トマスは本音では主の復活を望んでいたのだろう。イエスが十字架につけられる直前、これからエルサレムへ向かおうというとき、彼は「共に死のう」と他の弟子たちに呼びかけたくらいだ。彼のイエスを思う気持ちは本物である。「よみがえられた」という仲間たちの言葉を信じたい。信じたいけど、信じられない。そんな葛藤の中にあったのではないか。ただ、トマスは他の弟子たちに対して、適当に話しを合わすタイプではなかった。何かを信じるには、それなりの根拠や理由が彼には必要なのだ。ただ、それでもトマスは他の弟子たちに対してその時点で見切りをつけることはなかった。言わば、彼らとの交わりを保ちつつ、共に主を待ち望んだと言えよう。
ある精神科医によれば「脳はスッキリわかりたい」とのこと。これによると、人間は人生の難題を前にすると、安易な解決や結論を求めがちになる。しかし、真に大切なこと、深遠なことは、そう簡単にわかるものではない。従って人は『 宙ぶらりん』の状態に耐える力が必要になる。これをネガティヴ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)と言う。私たちの信仰の歩みにもこのような一面が確かにある。すぐに答えは見つからない。すぐに解決には至らない。モヤモヤとした宙ぶらりんな状態に時には耐えなければならない。スッキリしたいけど、スッキリしない。それでも、私たちの信じる神はよいお方で、私たちによくしてくださる。やがて時が来れば、神の幸いな御業がなされる。そのように信じて、時には 宙ぶらりん』に耐えることも必要である。トマスは復活のイエスと出会うまでの日々、まさにネガティブ・ケイパビリティをもって待ち望んだと言えよう。
弟子たちにお姿を現してから1週間後、今度はトマスも一緒の時、イエスは再び彼らに出会われた。まさにこのとき主はトマス一人のために来てくださったと言えよう。このとき、トマスはイエスの前で「私の主、私の神よ」と告白している(28節)。何と素晴らしく、貴重な信仰告白だろう。トマスのように注意深く、物事を現実的かつ総合的に考える人は、信じるのに少々時間がかかるかもしれない。でも、ひとたび信じたら、その信仰はそう簡単には揺るがない。伝説によると、トマスは後にインドにまで旅をしてキリストの救いをのべ伝えたという。疑い深いと言われたトマスだが、ひとたび従う決心をしてからは、どこまでも主についていった。その服従に妥協は全くなかった。このように、トマスの短所は長所でもあった。人の性格は十人十色だが、イエスはそれぞれに相応しいやり方でその人の歩みを導いてくださるのである。
人の性格は十人十色である。そして長所と短所は紙一重、長所が短所でもあり、短所が長所でもあり得る。せっかちな人は決断が早く、頑固な人は信念があり、面倒くさがりな人は合理的で、優柔不断な人は慎重で、協調性のない人は主体性に富み、飽きっぽい人は好奇心が旺盛である。キリストの弟子たちの中でも、トマスは疑り深い人であったと言われる。彼はイエスが復活して弟子たちと再会した際、一人だけ不在だった。主の復活を語る弟子たちに「復活などあり得ない」と反駁。25節では、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」と言っている。「決して信じない」とは強い言葉である。
しかし、トマスは本音では主の復活を望んでいたのだろう。イエスが十字架につけられる直前、これからエルサレムへ向かおうというとき、彼は「共に死のう」と他の弟子たちに呼びかけたくらいだ。彼のイエスを思う気持ちは本物である。「よみがえられた」という仲間たちの言葉を信じたい。信じたいけど、信じられない。そんな葛藤の中にあったのではないか。ただ、トマスは他の弟子たちに対して、適当に話しを合わすタイプではなかった。何かを信じるには、それなりの根拠や理由が彼には必要なのだ。ただ、それでもトマスは他の弟子たちに対してその時点で見切りをつけることはなかった。言わば、彼らとの交わりを保ちつつ、共に主を待ち望んだと言えよう。
ある精神科医によれば「脳はスッキリわかりたい」とのこと。これによると、人間は人生の難題を前にすると、安易な解決や結論を求めがちになる。しかし、真に大切なこと、深遠なことは、そう簡単にわかるものではない。従って人は『 宙ぶらりん』の状態に耐える力が必要になる。これをネガティヴ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)と言う。私たちの信仰の歩みにもこのような一面が確かにある。すぐに答えは見つからない。すぐに解決には至らない。モヤモヤとした宙ぶらりんな状態に時には耐えなければならない。スッキリしたいけど、スッキリしない。それでも、私たちの信じる神はよいお方で、私たちによくしてくださる。やがて時が来れば、神の幸いな御業がなされる。そのように信じて、時には 宙ぶらりん』に耐えることも必要である。トマスは復活のイエスと出会うまでの日々、まさにネガティブ・ケイパビリティをもって待ち望んだと言えよう。
弟子たちにお姿を現してから1週間後、今度はトマスも一緒の時、イエスは再び彼らに出会われた。まさにこのとき主はトマス一人のために来てくださったと言えよう。このとき、トマスはイエスの前で「私の主、私の神よ」と告白している(28節)。何と素晴らしく、貴重な信仰告白だろう。トマスのように注意深く、物事を現実的かつ総合的に考える人は、信じるのに少々時間がかかるかもしれない。でも、ひとたび信じたら、その信仰はそう簡単には揺るがない。伝説によると、トマスは後にインドにまで旅をしてキリストの救いをのべ伝えたという。疑い深いと言われたトマスだが、ひとたび従う決心をしてからは、どこまでも主についていった。その服従に妥協は全くなかった。このように、トマスの短所は長所でもあった。人の性格は十人十色だが、イエスはそれぞれに相応しいやり方でその人の歩みを導いてくださるのである。
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2025年07月11日
「マタイによる福音書」第6章9〜15節「主の祈りC御心が行われますように」
7月6日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生による説教。聖書箇所はマタイによる福音書第6章9〜15節。タイトルは「主の祈りC御心が行われますように」。
「主の祈り」はキリストが弟子たちに教えられた祈り。その中で、今日取り上げるのは10節の後半、「御心が行われますように 天におけるように地の上にも」。「御心」とは神の意志であり、その望みである。天とは神のおられるところ。言わば神の住まいであり、必ずしも空の上ではない。一方、地とは私たちのこの世界のこと。天は地とは別の領域、別の空間である。神、御子、天使の住まいがそこにある。天は今の私たちには目で見ることができない。しかし、天と地はそんなに離れているわけではない。それどころか、両者には接点があると言う人さえいる。そして、この節からわかることは、天では神の御心が行われているということ。しかし、地では必ずしも行われていない。だからこそ、御心が天で行われるように、地でも行われるようにと私たちは祈るのである。
インターネットYahoo!知恵袋で「神がいるなら、なぜ戦争や殺人事件があるのですか? 神さまは止めないのですか?」という質問があった。簡単には答えられない問いだが、キリスト者の立場から言うと「世界に悪が蔓延っているのは、私たち人間の罪のため。人がつくり主なる神を無視して、自分の好む道を歩み始めたから」ということになる。いずれにしても、大切なのは、この世界では神の望まれることが必ずしも行われていない現実があること。それこそ、戦争があり、凶悪犯罪もある。この世では神の御心は必ずしも行われていない。だからこそ私たちは祈るのである。地においても天でと同じように、御心が行われるようにと。そして、祈りつつ行動する。キリスト者一人一人がこの祈りを真剣に祈り始めるなら、それこそ世界が変わるのではないか。私たちの生活が変わり、家庭が変わり、教会が変わる。世界は私たちの祈りを必要としている。主の祈りによって、神はこの世界を崩壊から守ってくださり、平和な社会の実現へと繋がっていく。
次に、神の御心が地で行われるためには、私たちが毎日の生活において御心を求めなければならない。私たちが神の御心を選び取ることである。私たちの毎日は選択の連続である。毎朝の起床でベル
を止めるか止めないか、今日はどんな服装をするのかに始まり、選ばなければならないことがたくさんある。ある調査によると、成人は1日に3万5千回の選択をしているそうだ。それらの中には些細なものもあれば、人生を左右するような重要なものもあるだろう。自分の願いと神の御心が一致するなら、それは間違いのない選択である。しかし、時には自分の願いが、神の心と一致しないこともある。そんな時は、どうしたらいいのだろう?
十字架の前夜、イエスはゲッセマネの園で、父なる神に向かって祈られた。マタイによる福音書第26章39節には「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」とある。前半はイエスの率直な心である。イエスは父なる神に『できることなら、十字架を取り除けてください』と祈られた。しかし、後半では「わたしの思いのままにではなく、みこころのままに」と神の御心に沿うことを決意する。そして42節でも「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と、御心を受け入れる決意を重ねている。つまり、私たちの罪を負って十字架で死なれることを御父の御心として受け入れられた。十字架を選び取られたのである。
イエスの十字架の選択は、痛みと苦しみを伴う行動だった。しかし、十字架があるからこそ、復活もある。苦難があるからこそ、栄光もある。神は十字架の死に至るまで従順だったイエスを高く上げ、全てにまさる名をお与えになった(ピリピ人への手紙第2章8〜9節)。同じように、私たちも神の御心を選び取るとき、痛みや苦しみが伴うこともあるかもしれない。しかし、長い目で見るなら、それは心からの喜びと満足を与えてくれる道であることを覚えたい。
「主の祈り」はキリストが弟子たちに教えられた祈り。その中で、今日取り上げるのは10節の後半、「御心が行われますように 天におけるように地の上にも」。「御心」とは神の意志であり、その望みである。天とは神のおられるところ。言わば神の住まいであり、必ずしも空の上ではない。一方、地とは私たちのこの世界のこと。天は地とは別の領域、別の空間である。神、御子、天使の住まいがそこにある。天は今の私たちには目で見ることができない。しかし、天と地はそんなに離れているわけではない。それどころか、両者には接点があると言う人さえいる。そして、この節からわかることは、天では神の御心が行われているということ。しかし、地では必ずしも行われていない。だからこそ、御心が天で行われるように、地でも行われるようにと私たちは祈るのである。
インターネットYahoo!知恵袋で「神がいるなら、なぜ戦争や殺人事件があるのですか? 神さまは止めないのですか?」という質問があった。簡単には答えられない問いだが、キリスト者の立場から言うと「世界に悪が蔓延っているのは、私たち人間の罪のため。人がつくり主なる神を無視して、自分の好む道を歩み始めたから」ということになる。いずれにしても、大切なのは、この世界では神の望まれることが必ずしも行われていない現実があること。それこそ、戦争があり、凶悪犯罪もある。この世では神の御心は必ずしも行われていない。だからこそ私たちは祈るのである。地においても天でと同じように、御心が行われるようにと。そして、祈りつつ行動する。キリスト者一人一人がこの祈りを真剣に祈り始めるなら、それこそ世界が変わるのではないか。私たちの生活が変わり、家庭が変わり、教会が変わる。世界は私たちの祈りを必要としている。主の祈りによって、神はこの世界を崩壊から守ってくださり、平和な社会の実現へと繋がっていく。
次に、神の御心が地で行われるためには、私たちが毎日の生活において御心を求めなければならない。私たちが神の御心を選び取ることである。私たちの毎日は選択の連続である。毎朝の起床でベル
十字架の前夜、イエスはゲッセマネの園で、父なる神に向かって祈られた。マタイによる福音書第26章39節には「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」とある。前半はイエスの率直な心である。イエスは父なる神に『できることなら、十字架を取り除けてください』と祈られた。しかし、後半では「わたしの思いのままにではなく、みこころのままに」と神の御心に沿うことを決意する。そして42節でも「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と、御心を受け入れる決意を重ねている。つまり、私たちの罪を負って十字架で死なれることを御父の御心として受け入れられた。十字架を選び取られたのである。
イエスの十字架の選択は、痛みと苦しみを伴う行動だった。しかし、十字架があるからこそ、復活もある。苦難があるからこそ、栄光もある。神は十字架の死に至るまで従順だったイエスを高く上げ、全てにまさる名をお与えになった(ピリピ人への手紙第2章8〜9節)。同じように、私たちも神の御心を選び取るとき、痛みや苦しみが伴うこともあるかもしれない。しかし、長い目で見るなら、それは心からの喜びと満足を与えてくれる道であることを覚えたい。
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