尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による2026年7月5日の説教です。この日の箇所は「創世記」第33章12〜20節「ゆっくり参ります」。
「タイパ」という言葉が、よく使われています。これはタイムパフォーマンス、つまり時間効率を略した言葉です。「短い時間で、どれだけのものを得られるか」という価値観です。例えばスーパーでレジの長い列に並ぶより、セルフレジで手早く済ませる。映画館で2時間の映画を観るより、YouTubeで10分の予告編だけ観る。子どもたちも毎日の習い事で、用事の入っていない日はありません。このような生活をしていると大切な何かを失うのではないでしょうか。
兄エサウとの再会前に、ヤコブはペヌエルで神と向き合い、砕かれました。そうして、この兄弟はついに和解に至ったのです。再会の後、エサウはヤコブに一緒に行こうと誘います。その時、ヤコブは自らをしもべと呼び、エサウをご主人様と呼びました。ご主人様という呼称は、兄上さまと呼ぶのに等しいでしょう。そして、ヤコブは「ゆっくり参ります」と、兄エサウに伝えたのです。これまでのヤコブは生き急ぐ人生を送っていました。しかし、神との格闘で股関節が外れたことによって、自分自身もゆっくりとしか歩けなくなりました。これは神からヤコブへの「待った」であったと言えるでしょう。
哲学者のダラス・ウィラードは「霊的生活における最大の障害は急ぐことである」と言いました。また、あるカトリック信徒は、神父さんから「急ぐことは悪魔ですよ」と言われて、衝撃を受けたそうです。急ぐ時は、何かを犠牲にしています。子どもの話し、友人の悩み、家族の介護、毎日の祈り、聖書の言葉を味わう機会、家族と囲む食卓など大切なことをついつい怠り勝ちになるのです。聖歌355番「主と共に歩む」の歌詞には「一足、一足、主にすがりつつ」とあります。
15節では、エサウはヤコブに自分の部下を何人かヤコブの旅の助けとして残そうかと提案します。しかしヤコブはそれを丁寧に断り、ふたりはそれぞれ別の道に進みます。エサウはセイルに、ヤコブはスコトへと。『和解=いつでも一緒にいる』ではなく、お互いを尊重しつつも適切な距離を取ることが人生の智恵でしょう。ただ35章で父イサクが亡くなった時には兄弟で葬っていますので、兄弟の交わりは続いたのです。
長老教会の牧師である古川第一郎先生は、フレデリック・パールズの詩「ゲシュタルトの祈り」を紹介しました。さる鬱病の患者さんは、この詩を読んで、病が治ったそうです。ここでは古川先生がご自分なりにアレンジしたヴァージョンで紹介します。
『私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。私は、あなたの期待に答えるために、この世にいるのではない。あなたも、私の期待に答えるために、この世にいるのではない。あなたはあなた。私は私。もしも我々が、お互いの期待に答えることができたなら、そりゃあ、すばらしいことだ。しかし、それができなかったとしても 我々がよい友達であることに変わりはない。』
18節では、ヤコブがカナンの地に帰ったことについて「無事に」という表現が使われています。思えばヤコブの人生は、すったもんだの連続でした。でも、神はヤコブを見捨てることなく、ずっと一緒にいてくださったのです。私たちの生涯も同じでしょう。『もうダメだ』と幾度も思ったかもしれません。それでも、神の守りと導きが確かにあったのです。本日は月の第一聖日ですので、聖餐式をとり行います。聖餐は「ユーカリスト」とも言われますが、元々はギリシャ語からきた言葉で神への感謝を表わします。それはイエスの十字架の死と復活によって、私たちに永遠の生命が与えられた感謝に他なりません。そればかりか、復活の主は私たちと共に歩み、今日まで無事、守り導いてくださいました。感謝しつつ、聖餐にあずかりましょう。
リンク集
2026年07月09日
「創世記」第33章12〜20節「ゆっくり参ります」
posted by take at 19:26| Comment(0)
| 説教
2025年12月07日
コリントの信徒への手紙一 第15章12〜28節「キリストの復活と私たちの復活」。
4月21日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日のテーマは、コリントの信徒への手紙一 第15章12〜28節より、「キリストの復活と私たちの復活」。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は無意味なものとなり、あなたがたは今もなお罪の中にいることになる」 (17節)。ここで言う「無意味」とは、復活がなければ、イエスは死なれただけの存在となり、結局は悪の勝利になってしまうということ。しかし、イエスは復活されたので、ご自身が神の御子であり、救い主であることが示された。
説教の中で紹介された、あるキリスト教系の大学でのエピソード キャンパスで守衛さんが聖書を読んでいると、通りかかった聖書科の教授が「どこを読んでいるのですか?」と尋ねた。守衛さんが 「ヨハネの黙示録です」と答えると、教授は「難しい箇所ですね。読んでいてわかりますか?」と。すると、守衛さんは「はい、わかります!最後にはイエス様が勝つと書いてあります」と答えたという。これが聖書のメッセージの核心である。最後には、キリストが勝つ。それだから、命が死に、光が闇に、愛が憎しみに勝利する。振り返ってみると、アダムとエバの罪によって人は死ぬ運命にあったが、キリストの十字架と復活によって、私たちは罪ゆるされ、死に打ち勝つ者とさせられた。神はこのキリストを信じる者に、死をも乗り越える永遠の命を与えると聖書は語る。 「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました」 (20節)。『初穂』とは、畑にできた最初の収穫物のことで、イスラエルでは神への捧げ物や収穫の前兆とされてきた。リビングバイブルではこの節をわかりやすく、次のように訳す。「しかし事実、キリストさまは死人の中から復活しました。そして、復活が約束されている何千万何百万もの人の、復活第一号となられたのです」。キリストは復活第一号!そして、信じる私たちも、このお方に続くのである。
また、説教では、数年前の小学生キャンプの思い出も語られた。ある少年が羽化寸前の蝉の幼虫を捕まえ、その決定的な瞬間を見守った。蝉の幼虫の抜け殻はよく見かけるが、羽化の瞬間を間近で見ることは稀。子どもたちも大人たちも息をつめて見守り、羽化を終えた蝉が飛び立つ姿に感動した。地中で暮らす幼虫と、羽化して青空を飛び回る成虫。まるで別世界に生きる生物であるが、両者には確かに『連続性』がある。私たちも今はこの世の命を生きている。しかし、やがてキリストの再臨と御国の到来によって、復活の命と復活の体をいただく時が来る。その時、羽化した蝉が自由に青空を飛び回るように、私たちもこの世の痛みや苦しみから全く解放される。キリストの死と復活によって、信じる私たちにも永遠の命の希望が与えられていることを覚えたい。
説教の中で紹介された、あるキリスト教系の大学でのエピソード キャンパスで守衛さんが聖書を読んでいると、通りかかった聖書科の教授が「どこを読んでいるのですか?」と尋ねた。守衛さんが 「ヨハネの黙示録です」と答えると、教授は「難しい箇所ですね。読んでいてわかりますか?」と。すると、守衛さんは「はい、わかります!最後にはイエス様が勝つと書いてあります」と答えたという。これが聖書のメッセージの核心である。最後には、キリストが勝つ。それだから、命が死に、光が闇に、愛が憎しみに勝利する。振り返ってみると、アダムとエバの罪によって人は死ぬ運命にあったが、キリストの十字架と復活によって、私たちは罪ゆるされ、死に打ち勝つ者とさせられた。神はこのキリストを信じる者に、死をも乗り越える永遠の命を与えると聖書は語る。 「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました」 (20節)。『初穂』とは、畑にできた最初の収穫物のことで、イスラエルでは神への捧げ物や収穫の前兆とされてきた。リビングバイブルではこの節をわかりやすく、次のように訳す。「しかし事実、キリストさまは死人の中から復活しました。そして、復活が約束されている何千万何百万もの人の、復活第一号となられたのです」。キリストは復活第一号!そして、信じる私たちも、このお方に続くのである。
また、説教では、数年前の小学生キャンプの思い出も語られた。ある少年が羽化寸前の蝉の幼虫を捕まえ、その決定的な瞬間を見守った。蝉の幼虫の抜け殻はよく見かけるが、羽化の瞬間を間近で見ることは稀。子どもたちも大人たちも息をつめて見守り、羽化を終えた蝉が飛び立つ姿に感動した。地中で暮らす幼虫と、羽化して青空を飛び回る成虫。まるで別世界に生きる生物であるが、両者には確かに『連続性』がある。私たちも今はこの世の命を生きている。しかし、やがてキリストの再臨と御国の到来によって、復活の命と復活の体をいただく時が来る。その時、羽化した蝉が自由に青空を飛び回るように、私たちもこの世の痛みや苦しみから全く解放される。キリストの死と復活によって、信じる私たちにも永遠の命の希望が与えられていることを覚えたい。
posted by take at 00:11| Comment(0)
| 説教
2025年10月11日
ヨハネによる福音書第20章24〜29節「長所と短所は紙一重」
2024年4月14日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はヨハネによる福音書第20章24〜29節「長所と短所は紙一重」。
人の性格は十人十色である。そして長所と短所は紙一重、長所が短所でもあり、短所が長所でもあり得る。せっかちな人は決断が早く、頑固な人は信念があり、面倒くさがりな人は合理的で、優柔不断な人は慎重で、協調性のない人は主体性に富み、飽きっぽい人は好奇心が旺盛である。キリストの弟子たちの中でも、トマスは疑り深い人であったと言われる。彼はイエスが復活して弟子たちと再会した際、一人だけ不在だった。主の復活を語る弟子たちに「復活などあり得ない」と反駁。25節では、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」と言っている。「決して信じない」とは強い言葉である。
しかし、トマスは本音では主の復活を望んでいたのだろう。イエスが十字架につけられる直前、これからエルサレムへ向かおうというとき、彼は「共に死のう」と他の弟子たちに呼びかけたくらいだ。彼のイエスを思う気持ちは本物である。「よみがえられた」という仲間たちの言葉を信じたい。信じたいけど、信じられない。そんな葛藤の中にあったのではないか。ただ、トマスは他の弟子たちに対して、適当に話しを合わすタイプではなかった。何かを信じるには、それなりの根拠や理由が彼には必要なのだ。ただ、それでもトマスは他の弟子たちに対してその時点で見切りをつけることはなかった。言わば、彼らとの交わりを保ちつつ、共に主を待ち望んだと言えよう。
ある精神科医によれば「脳はスッキリわかりたい」とのこと。これによると、人間は人生の難題を前にすると、安易な解決や結論を求めがちになる。しかし、真に大切なこと、深遠なことは、そう簡単にわかるものではない。従って人は『 宙ぶらりん』の状態に耐える力が必要になる。これをネガティヴ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)と言う。私たちの信仰の歩みにもこのような一面が確かにある。すぐに答えは見つからない。すぐに解決には至らない。モヤモヤとした宙ぶらりんな状態に時には耐えなければならない。スッキリしたいけど、スッキリしない。それでも、私たちの信じる神はよいお方で、私たちによくしてくださる。やがて時が来れば、神の幸いな御業がなされる。そのように信じて、時には 宙ぶらりん』に耐えることも必要である。トマスは復活のイエスと出会うまでの日々、まさにネガティブ・ケイパビリティをもって待ち望んだと言えよう。
弟子たちにお姿を現してから1週間後、今度はトマスも一緒の時、イエスは再び彼らに出会われた。まさにこのとき主はトマス一人のために来てくださったと言えよう。このとき、トマスはイエスの前で「私の主、私の神よ」と告白している(28節)。何と素晴らしく、貴重な信仰告白だろう。トマスのように注意深く、物事を現実的かつ総合的に考える人は、信じるのに少々時間がかかるかもしれない。でも、ひとたび信じたら、その信仰はそう簡単には揺るがない。伝説によると、トマスは後にインドにまで旅をしてキリストの救いをのべ伝えたという。疑い深いと言われたトマスだが、ひとたび従う決心をしてからは、どこまでも主についていった。その服従に妥協は全くなかった。このように、トマスの短所は長所でもあった。人の性格は十人十色だが、イエスはそれぞれに相応しいやり方でその人の歩みを導いてくださるのである。
人の性格は十人十色である。そして長所と短所は紙一重、長所が短所でもあり、短所が長所でもあり得る。せっかちな人は決断が早く、頑固な人は信念があり、面倒くさがりな人は合理的で、優柔不断な人は慎重で、協調性のない人は主体性に富み、飽きっぽい人は好奇心が旺盛である。キリストの弟子たちの中でも、トマスは疑り深い人であったと言われる。彼はイエスが復活して弟子たちと再会した際、一人だけ不在だった。主の復活を語る弟子たちに「復活などあり得ない」と反駁。25節では、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」と言っている。「決して信じない」とは強い言葉である。
しかし、トマスは本音では主の復活を望んでいたのだろう。イエスが十字架につけられる直前、これからエルサレムへ向かおうというとき、彼は「共に死のう」と他の弟子たちに呼びかけたくらいだ。彼のイエスを思う気持ちは本物である。「よみがえられた」という仲間たちの言葉を信じたい。信じたいけど、信じられない。そんな葛藤の中にあったのではないか。ただ、トマスは他の弟子たちに対して、適当に話しを合わすタイプではなかった。何かを信じるには、それなりの根拠や理由が彼には必要なのだ。ただ、それでもトマスは他の弟子たちに対してその時点で見切りをつけることはなかった。言わば、彼らとの交わりを保ちつつ、共に主を待ち望んだと言えよう。
ある精神科医によれば「脳はスッキリわかりたい」とのこと。これによると、人間は人生の難題を前にすると、安易な解決や結論を求めがちになる。しかし、真に大切なこと、深遠なことは、そう簡単にわかるものではない。従って人は『 宙ぶらりん』の状態に耐える力が必要になる。これをネガティヴ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)と言う。私たちの信仰の歩みにもこのような一面が確かにある。すぐに答えは見つからない。すぐに解決には至らない。モヤモヤとした宙ぶらりんな状態に時には耐えなければならない。スッキリしたいけど、スッキリしない。それでも、私たちの信じる神はよいお方で、私たちによくしてくださる。やがて時が来れば、神の幸いな御業がなされる。そのように信じて、時には 宙ぶらりん』に耐えることも必要である。トマスは復活のイエスと出会うまでの日々、まさにネガティブ・ケイパビリティをもって待ち望んだと言えよう。
弟子たちにお姿を現してから1週間後、今度はトマスも一緒の時、イエスは再び彼らに出会われた。まさにこのとき主はトマス一人のために来てくださったと言えよう。このとき、トマスはイエスの前で「私の主、私の神よ」と告白している(28節)。何と素晴らしく、貴重な信仰告白だろう。トマスのように注意深く、物事を現実的かつ総合的に考える人は、信じるのに少々時間がかかるかもしれない。でも、ひとたび信じたら、その信仰はそう簡単には揺るがない。伝説によると、トマスは後にインドにまで旅をしてキリストの救いをのべ伝えたという。疑い深いと言われたトマスだが、ひとたび従う決心をしてからは、どこまでも主についていった。その服従に妥協は全くなかった。このように、トマスの短所は長所でもあった。人の性格は十人十色だが、イエスはそれぞれに相応しいやり方でその人の歩みを導いてくださるのである。
posted by take at 08:59| Comment(0)
| 説教