発売元は伝道文書販売センター、定価は1,700円です。先生の全114回の礼拝説教のお話が列挙。タイトルのラザロはイエスの友人で、イエスの恩寵で死から甦えっています。購入ご希望の方は教会までご連絡下さい。
2023年01月07日
2023年01月06日
隠れている基礎
2022年10月04日
愛弟子による誘惑
すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ、わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」。(マタイによる福音書一六・二二、二三)
わたしたちを取りまくすべての問題の本質はわたしたちの意識の中にあると申し上げたら、言い過ぎになるでしょうか。時折、わたしはそんなことを考えたりします。それは決してわたしたちの現実問題を抽象概念で片づけてしまうという訳ではないのです。ただ、人生観の違いで同じ環境下でも生き方が随分違って見える場合、外側の問題だけでは十分説明がつかないことが沢山あるな、と思うのです。イエスさまの公生涯において、一つの大きなクライシス(転機)と言われております冒頭のマタイの福音書十六章をそんな見方で読むと、そこには単に師弟の関係以上の、イエスさまの内的経験の深みを覗かせられるテキストのように思われます。ペテロがイエスさまによって「サタン」と叱咤されているので、どうしてもペテロは悪役を演じた人間に見えてしまいます。しかし、いくら罪深い人間でも、人間がそのままサタン(悪魔)である筈がないのですから、イエスさまはこの時、愛弟子ペテロの背後にサタンの働きを見たのだと思います。やはり、冒頭に申し上げたようにイエスさまの意識の中で受け止めた問題なのです。では、どうしてイエスさまはペテロをサタンと呼ばざるを得なかったのでしょうか。テキストの前後から判断するとペテロがイエスさまをいさめた言葉は、今まさに大きな決断をもって十字架に向かおうとするイエスさまの心に水を差す言葉となったからです。ペテロには悪意などさらさら無かったのです。いや、むしろ弟子としてイエスさまをそんな危険な目に遭わせることは出来ない、と精一杯忠誠心を見せたつもりでした。しかし、イエスさまの一番近くに居りながらイエスさまの心の内、イエスさまが御父の定めとして受領しようとしていた受難の意味するところを彼は十分理解していなかっただけなのです。そのため、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とイエスさまに言われてしまいました。人のことは文字通り「人間のこと」(アンスローボーン)、人間的なことです。非人間的なことがなんのためらいもなくまかり通るご時世、もっともっと人間性の回復が心がけられなければいけないと思います。しかし、どんなに意味のある「人のこと」も「神のこと」と比べられると色あせて見えるものです。イエスさまの十字架への決断は、師を思う弟子の心が人間的であればある程、大きな誘惑になるのです。
この辺の心境をわたしなりに理解できる経験があります。宗教色のなにもない家庭で育ったわたしは自由に教会へ出入りできたのですが、献身をする旨をうち明けたとき、さすが両親はびっくりして、そこまでしなくてもいいだろうと反対しました。自分としてもなりたくてなるのではない、召命の意味をどう説明してよいか分からず、ただ時の過ぎるのに任せ、諦められるのを待つしかありませんでした。「もう知らないから、勝手にしなさい」と、その辺に事は落ち着くのかなと予想していました通りになった時、ホッとしたやら寂しいやらで複雑な思いでした。告白から家を出るまでの数ヶ月間、寡黙な生活が続きました。そして、いよいよ聖書学院に入学するため家を出る時、玄関先で母の一言が背中に聞こえてきました。「辛いことがあったら意地を張ってないで、いつでも帰ってきていいんだからね」と。その後、本当に辛いことが再三ありました。そして、その度に 甦 ってくる別れ際のあの母の言葉、聞くまい思い出すまいと意地を張っている自分を悲しいかな認めざるを得ませんでした。わたしにとって、もうそれは、やさしい母の言葉ではなく誘惑の言葉でした。しかし、神のことを思い、ご召命に応えてきた今、あらためて人のことの大切さも同時に学んできたように思えます。