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2017年09月13日

摂理の妙味


      みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の
           造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
           わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる
           身分を授けるようにと、御旨のよしとするするとこ
           に従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのであ
           る。                (エペソ人への手紙一・四、五)

 世の中の一般の日常語としてはあまり使われませんが、教会の中
ではごく普通に使われている「摂理」と言う言葉があります。岩波
の国語辞典には、(キリスト教で)世界のすべてを導き治める神の
意思・恩恵、と書いてあります。「摂理」と言う言葉そのものは聖
書(日本聖書協会、口語訳)に出てきませんが、同じ意味の言葉は
幾つかあります。
 旧約聖書では詩篇百四十六篇十節の「主はとこしえに統べ治めら
れる」と言う言葉などです。また新約聖書には「神の支配」を意味
する「神の国」と言う言葉がたくさん出てきます。
 クリスチャンは神が永遠に活けるお方として、わたしたちの歴史
に深く関与されていと信じています。しかも短く限られた歳月しか
生きておりませんわたしたちを、そこへ生かしめて下さるために神
さまは長い長い歴史の準備期間を設けて下さっておるようです。
 娘が中学校へ入学した日、担任の先生がお互いの命を大切にしま
しょう、と言って、黒板に図を書きながらおもしろいお話をしてく
れました。黒板の下の縁に小さな人間の略図を書きました。そこか
ら二本の線を上の方へ引いて、そこへ二人の人間の略図をまた書き
ました。更に、二人の人間の上にそれぞれ二本の線を引いて四人の
人間の略図を書き、上へだんだん伸ばしてちょうど逆三角形に人間
の系図を何段か書いて、やがてこう言いました。
 「みなさん、いま先生はみなさんの先祖に向かって何代かの系図
を書きました。一番下のみなさんから二十代さかのぼると何人ぐら
いの人になるか分かりますか」、「計算すると百万人以上の人たち
になりますよ」と。これにはわたしもびっくりして後で帰ってから
電卓で計算してみました。その時、先生のお話はまだ続いたのです。
 「上の方の誰かが、いや二十代上の百万人の一人が何かの理由で
欠けたとしますと下の方に影響を与えてみなさんは生まれて来ない
のですよ」と。なるほど理屈です。
 わたしは更に考えました。仮に欠けた人の相手が別の人と結婚を
したとしても生まれてくる人も違う人となり、系図は続いたとして
も一番下の人はわたしではない別の人になります。
 いやいや、もっと厳密に言えば人の入れ替わりがない、そのまま
の系図であっても、わたしの母親の妊娠のタイミングが少しずれた
だけで、一精子一人格の生殖原理から別人の系図が予想されるわけ
です。まさに命の存在の妙と言うものです。
 宗教改革者カルビンは冒頭のエペソ人への手紙を愛読し彼の神学
の一つの特徴である「神の予定」とか「神の予知」について、その
信仰を深めました。エペソ人への手紙の著者は使徒パウロですが、
頂いた神さまの恵みのすばらしさの故に、自分のこの幸いな経験は
神の単なる思いつきではなく、はるか以前からの神のご計画にある
と観想したのでしょう。彼はそのような神さまの摂理を自分一人だ
けの経験としてではなく、すべてのクリスチャンに普遍化させて、
「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び・」
と手紙に書いたのです。
 確かに、自分がクリスチャンになる経緯を振り返ってみますと、
自分史以前、即ち、わたしのプレヒストリーがどうしてもたどられ
ます。更にはここまでの福音の担い手として用いられた聖徒たちの
連綿とした歴史までも辿られて行きます。そしてその歴史の主宰者
こそ神さまであると信ずることが、まさに摂理信仰というものなの
です。
 わたしにとっては、イエスさまとの出会いの経験こそが、自我の
目覚めの機縁でした。キリスト教の神さまが「生ける神さま」とし
て信仰告白されるかぎり、摂理信仰はすべてのクリスチャンの信仰
の大前提です。
 わたしの場合も、信仰の感性としてごく自然に、この摂理信仰が
についたようです。これは「神学のテーマ」として扱うよりも、
むしろ「信仰のテーマ」として扱うべきで、「摂理」はわたしたち
の知性を越えた奇にして妙な奥義の世界のようです。
posted by take at 23:04| Comment(0) | 礼拝メッセージ

2017年06月10日

著作家としてのイエスさま

   信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを
   仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
              ヘブル人への手紙一二・二)

 上の句はヘブル人への手紙の中でもたいへん有名な句です。この
言葉によって、どんなに大勢のクリスチャンが励まされたり、慰め
られたりしたことか、お互いの信仰生活をふり返ってみても、ここ
ろ当たりの方が多いのではないでしょうか。
 ちょうどマラソン選手の伴走者のようなイエスさまが想い浮かば
れます。本当にイエスさまはわたしたちの信仰生活における最良の
ペースメーカーです。
 ところで、「導き手」と訳された言葉はそのあとの「完成者」と
言う言葉と対句の関係で使われていますから、厳密には「創始者」
とした方が良いかと思います。最近の新しい訳は「創造者」とか
「創始者」と訳しています。ペースメーカーとしてのイエスさまを
連想させるのは、あとに続く「仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と
いう言葉からくるのです。
  神さまが創造すると言うことと、わたしたちが何かを創造すると
言うこととは本質的な違いがあります。まずプロデュースの道具立
てからして違います。わたしたちは既に存在しているものを用い、
またそれを加工して何かを創ります。しかし、神さまは自らの「こ
とば」によってすべてを創造されたと書かれています。神の「こと
ば」は単なる意志の表現手段ではなく、創造力そのものといった性
質を持っています。
 その昔、神さまはイスラエルをエジプトの奴隷から解放しようと
指導者モーセを立てて遣わされました。その時、神さまがご自分を
「わたしは、有って有る者」また「わたしは有る」と言う者、と自
己紹介をされました。それはまさに「ことば」と「創造力」を一つ
に併せ持つ神さまの本質なのです。
 人がものを創る能力に長けているのは創造主なる神さまのイメー
ジに似せて創られているからなのです。神さまは万物創造の最後に
ご自身の愛の対象として人間を、そしてその人間との交わりを可能
にするための信仰をわたしたちに創造されました。
 長いこと英語圏で支配的であったキング・ジェームズ訳は、「導
き手」をauthor と訳しています。創造者と言う意味もありますが、
一般的には著作者とか作家という意味です。
 わたしは白い紙とペンを手にすると、なんとなく気持ちが高揚す
るのを覚えます。だれの制約も受けず、自分の思いのたけを何でも
そこに表現できる自由さを実感するからだと思います。何を書こう
かと考えている時の楽しさはなんとも言えません。
 たしかに、著作といえば創造的な業です。イエスさまはわたしの
信仰をテーマに一つの物語を書き始めました。その物語が、どうい
う筋書きで展開されていくのか、わたしたちはそのドラマの主人公
ですから分かりません。しかも、イエスさまが書き上げていく世界
はフィクションではありません。すべてノンフィクションの世界に
成るのです。だからこそイエスさまは創造者なのです。
 テレビドラマなどでよく見かけるオープニングシーンにこんな情
景があります。にぎやかな人ごみの流れが映し出され、そのドラマ
の主役がその雑踏のどこかにいるのです。はじめのうちは分からな
いのですが、カメラの目がおおぜいの群衆の中の主役に焦点をしぼ
っていきます。そしてその主役の動きを追い、やがてその主役をク
ローズアップしていくシーンです。
 なんと、その主役があなたであり、またわたしなのです。大勢の
人々の中に埋没して生きていると思っていたわたしたちを、初めか
らイエスさまが神のいのちに生きる人生ドラマの主役として描き出
しておられます。
 更には、わたしたちがその主役を演じるとき、最高の演技ができ
るようにイエスさまは演出家も兼ねていてくださいます。
 楽園喪失以後のわたしたちへの熱い思いを主は自らの著作の中に
著わし、わたしたちをして神の栄光をあらわす尊い存在として書き
上げてくださいました。
 「あなたがたの内に良い業を始められたかたが、キリスト・イエ
スの日までにそれを完成して下さるにちがいないと確信している」
(ビリビ人への手紙一・六)。創造者は同時に完成者です、
posted by take at 10:36| Comment(0) | 礼拝メッセージ

2017年06月06日

エリヤも人間です

    エリヤはわたしたちと同じ人間であったが、
   雨が降らないようにと祈りをささげたところ、
   三年六ケ月のあいだ、地上に雨がふらなかった。
            (ヤコブの手紙五・一七)

 結果が早いか遅いかさえ問わなければ、いまだかって、雨乞いの
祈りで聞かれなかった祈りはありません。地域の差はありますが、
大体は雨期や乾期のサイクルがあって、ときにこのサイクルが少し
狂ってなかなか降らない日が続いたとしても、みんなが困り果てて
祈ろうかと、言い出す頃はそろそろ降り出す条件が満たされてくる
頃なのです。
 こざかしい呪術師が無知な民衆のこころを、このような自然現象
をうまく利用して収らんしたこともあるくらいです。
 ところが、雨乞いならぬ、「雨止めの祈り」はあまり聞いたこと
がありません。テルテル坊主などの、こどもの願いを別にすれば、
だいたい祈る必要もあまりないのです。いくら気まぐれな気象現象
とは言え、雨期にでも祈ったら、ただちにインチキがバレてしまう
でしょう。
 予言者エリヤはだれも祈らないこの「雨止めの祈り」をささげて
その顕著な効果を現させていただいためずらしい人間です。ヤコブ
の手紙で、「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものであ
る」と、彼を力ある祈りをした代表的な人間として紹介しておりま
すが、あの特異な祈りが印象深かったのかも知れません。
 それからもう一つ忘れてはならないことがあります。彼の祈りは
結果としてアハブの悪政に干ばつと言う神の裁きをもたらしたわけ
ですが、同時に彼自身もこの干ばつと言う同じ状況下で生きること
の困難を強いられていたのです。神の助けがなかったら彼の逃亡生
活は続かなかったかも知れません。
 さて、ヤコブが紹介するエリヤに関する言葉の中で、わたしが特
に注意を促されることは「エリヤは、わたしたちと同じ人間であっ
た」と言うところです。この当たりまえのことがことさら表現され
たのは、エリヤが祈りのヒーローとしてクローズアップされるあま
り、祈りがだれにでも普遍的に与えられている神の祝福に与る手段
であることを忘れないようにと配慮されたのかも知れません。
 多分それもありましょう。しかし、著者はエリヤの弱い人間性を
わたしたちに想起させることによって、祈りに対する自信をわたし
たちに与えようとされている面も見逃してはならないでしょう。
 この手紙の読者は、わたしたち以上にエリヤの生涯を詳しく知っ
ておりました。カルメル山でバアルの予言者、四百五十人を相手に
たった一人で勇ましく祈り競って勝利をおさめたその勇姿も、それ
から悪魔のような残忍な王妃イゼベルに指名手配をされて、ひとり
荒野をさまよいつつ、神さまに死を求めて祈っている彼の惨めな姿
もよく知っておりました。
 人はだれでも有頂天になるような時ばかりではありません。失意
のドン底に落ち込むようなときもあります。だからこそ、彼もわた
したちと同じ人間だったのです。その彼にしてできた祈りを、わた
したちに出来ないことがありますか、わたしたちにも力ある祈りが
できますよと、ヤコブは言っているようです。
 「困ったときの神頼み」でもいいではありませんか。神さまの出
る幕は人間がギブアップした時なのですから。わたしなどは困った
とき反射的に祈りが出てこないのです。どうしょうか、ああでもな
い、こうでもないとさんざん思い煩ったあげく、ああそうだ祈るん
だったと。まだまだ未熟で情けない始末です。それでも祈ることを
思い起こさせてもらえただけでも憐れみです。そのうち、きっと事
に臨んで反射的に祈れる習性が身につくと信じております。
 全能の神さまを頂いている人間が、その神さまの御手を動かしま
つるお祈りをしないなんて、これほど勿体ない話はありません。
 もしかしたら神さまの方がわたしたちの窮状をご存じで、どうし
て素直に祈り求めて来ないのかと焦って待っていらっしゃるかも知
れません。
 祈りの壇が崩れておりましたら早いうちに繕いましょう。
posted by take at 14:57| Comment(0) | 礼拝メッセージ