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2023年01月07日

高橋武夫牧師先生の著書「イエスさま、ラザロが病んでいますよ」

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発売元は伝道文書販売センター、定価は1,700円です。先生の全114回の礼拝説教のお話が列挙。タイトルのラザロはイエスの友人で、イエスの恩寵で死から甦えっています。購入ご希望の方は教会までご連絡下さい。

posted by take at 17:29| 礼拝メッセージ

2023年01月06日

隠れている基礎

 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。 (ルカによる福音書6章47〜48節)

 新約聖書の最初の部分に四つの福音書があります。いずれもイエスさまのご生涯を中心に記したものです。よく読むとイエスさまの説教や行いをそれぞれの福音書記者が等しく取り上げているものから、一つの福音書にしか記されていないものなど、また同じ内容のものでもそれぞれの福音書によって表現が微妙に違うものなどいろいろあります。時には、どっちが本当なのだろうかと迷うような記述もあります。聖書を本格的に学ぶと大変おもしろく感じることがあります。冒頭の句はマタイによる福音書7章24節以降にも出ています。ほとんど同じ表現ですが、違う点はルカによる福音書には「地を深く掘り」という一言がありますが、マタイによる福音書にはそれが無いことです。その違いはそれぞれが日頃から見慣れていた生活習慣の違いから来るのかも知れません。わたしたち日本人でも町が城壁で囲まれているのを見ると異様な印象を受けます。しかし、そういう町に住んでいる人からわたしたちの町を見れば、随分と無防備に見えることでしょう。マタイは岩肌があちらこちらに見えるような所にある家を、ふだんから当たり前のように見て生活していたのかも知れません。一方、ルカの方は岩があまり地表には見えないような所で生活していたのかも知れません。ただ、彼は家の基礎の大切なこと、建築上の常識をわきまえていたから、岩がある所まで「地を深く掘り下げ」と書いたのだと思います。いずれにしても、土台や基礎の部分は人目につきにくい部分です。外観や見栄を気にする者と家そのものの堅固さに心を用いる者とはどの部分にお金を沢山かけるか当然違ってくるでしょう。
 最初から砂地と岩地という二通りの立地条件がそこに見えておれば誰でもしっかりとした岩の上に家を建てるでしょう。岩地を選ぶ困難がそこに予想されなければ誰でも好きこのんで不安定な砂地に家を建てる者は居ないはずです。もし、岩地を選ぶ困難が、地価が高いとか、生活に不便とか、少々建築費が割高とか、仮にそのような不都合があっても、お金を惜しんで砂地に建て、天災ですべてを失うよりは、後になって賢い者と言われるほうが良いでしょう。そうしてみるとルカが記すように「地を深く掘り」という一言は大変重みを増してきます。 今日の話なら、基礎部分を深く掘り起こすのにはさほど苦労は無いかも知れませんが、昔の話ですから、それは大変な苦労が伴ったことでしょう。土台が岩か砂かの違いはその上の家の運命を大きく決定いたします。洪水が出て激流がその家に押し寄せてくる危機が必ずあると前提でこの例え話がなされております。多分、そういう自然災害がパレスチナでも結構あったのではないかと想像されます。
 イエスさまは家の基礎の話として語られましたが、当然これは、人間生活のあらゆる局面で普遍的に該当する真理でありまして、わたしたちが平素どのようなものに依存して生きているか、またどのような価値観に立って生きているか、やがて試みされる日が必ず来ると警告しているのです。岩地か砂地かの選択基準はイエスさまの話を聞いて実践するか、聞きっぱなしに終わるかの違いにあると前置きされています。岩地に家を建てるのにそれなりの困難が予想されているのならイエスさまの教えを実践するのに当然いろいろな困難があるということになります。そうでなければ容易にみな実践するのではないでしょうか。マタイによる福音書13章の種まきの譬えの中で、イエスさまは石地に蒔かれた種は芽を出すがすぐに枯れてしまう、と説明しながら、「御言葉のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまずいてしまう」と、枯れてしまう理由を述べています。
 わたしたちの堅実な人生設計のためにイエスさまの教えを守り、実践することは時に自分との戦い、時に周囲との軋轢を経験することも覚悟しなければならないものです。

posted by take at 14:00| Comment(0) | 礼拝メッセージ

2022年10月04日

愛弟子による誘惑

 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ、わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」。(マタイによる福音書一六・二二、二三)

 わたしたちを取りまくすべての問題の本質はわたしたちの意識の中にあると申し上げたら、言い過ぎになるでしょうか。時折、わたしはそんなことを考えたりします。それは決してわたしたちの現実問題を抽象概念で片づけてしまうという訳ではないのです。ただ、人生観の違いで同じ環境下でも生き方が随分違って見える場合、外側の問題だけでは十分説明がつかないことが沢山あるな、と思うのです。イエスさまの公生涯において、一つの大きなクライシス(転機)と言われております冒頭のマタイの福音書十六章をそんな見方で読むと、そこには単に師弟の関係以上の、イエスさまの内的経験の深みを覗かせられるテキストのように思われます。ペテロがイエスさまによって「サタン」と叱咤されているので、どうしてもペテロは悪役を演じた人間に見えてしまいます。しかし、いくら罪深い人間でも、人間がそのままサタン(悪魔)である筈がないのですから、イエスさまはこの時、愛弟子ペテロの背後にサタンの働きを見たのだと思います。やはり、冒頭に申し上げたようにイエスさまの意識の中で受け止めた問題なのです。では、どうしてイエスさまはペテロをサタンと呼ばざるを得なかったのでしょうか。テキストの前後から判断するとペテロがイエスさまをいさめた言葉は、今まさに大きな決断をもって十字架に向かおうとするイエスさまの心に水を差す言葉となったからです。ペテロには悪意などさらさら無かったのです。いや、むしろ弟子としてイエスさまをそんな危険な目に遭わせることは出来ない、と精一杯忠誠心を見せたつもりでした。しかし、イエスさまの一番近くに居りながらイエスさまの心の内、イエスさまが御父の定めとして受領しようとしていた受難の意味するところを彼は十分理解していなかっただけなのです。そのため、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とイエスさまに言われてしまいました。人のことは文字通り「人間のこと」(アンスローボーン)、人間的なことです。非人間的なことがなんのためらいもなくまかり通るご時世、もっともっと人間性の回復が心がけられなければいけないと思います。しかし、どんなに意味のある「人のこと」も「神のこと」と比べられると色あせて見えるものです。イエスさまの十字架への決断は、師を思う弟子の心が人間的であればある程、大きな誘惑になるのです。

 この辺の心境をわたしなりに理解できる経験があります。宗教色のなにもない家庭で育ったわたしは自由に教会へ出入りできたのですが、献身をする旨をうち明けたとき、さすが両親はびっくりして、そこまでしなくてもいいだろうと反対しました。自分としてもなりたくてなるのではない、召命の意味をどう説明してよいか分からず、ただ時の過ぎるのに任せ、諦められるのを待つしかありませんでした。「もう知らないから、勝手にしなさい」と、その辺に事は落ち着くのかなと予想していました通りになった時、ホッとしたやら寂しいやらで複雑な思いでした。告白から家を出るまでの数ヶ月間、寡黙な生活が続きました。そして、いよいよ聖書学院に入学するため家を出る時、玄関先で母の一言が背中に聞こえてきました。「辛いことがあったら意地を張ってないで、いつでも帰ってきていいんだからね」と。その後、本当に辛いことが再三ありました。そして、その度に 甦 ってくる別れ際のあの母の言葉、聞くまい思い出すまいと意地を張っている自分を悲しいかな認めざるを得ませんでした。わたしにとって、もうそれは、やさしい母の言葉ではなく誘惑の言葉でした。しかし、神のことを思い、ご召命に応えてきた今、あらためて人のことの大切さも同時に学んできたように思えます。

posted by take at 17:09| Comment(0) | 礼拝メッセージ