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2025年01月18日

ルカによる福音書第23章44〜49節「父よ、私の霊を御手に委ねます」

3月24日の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はルカによる福音書第23章44〜49節。中心聖句は、46節の「父よ、私の霊を御手に委ねます」。これはイエスの受難における7つの言葉の7つ目。つまり、十字架上での、否、この世の生涯における最後の言葉といえる。ここで、これまで学んだ、7つの言葉をさらってみると、以下の通り。
@「 父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」A 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」B 「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」 「ご覧なさい。あなたの母です」C 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」D 「わたしは渇く」E 「完了した」F 「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」

淀川キリスト病院の柏木哲夫先生は、ホスピスで2千人以上を看取ってきた。先生曰く「人は生きたように死んでゆく」。その人の死に様は、生き様を表しているという。イエスはこの世を去るとき、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と祈られた。父なる神にご自身の全てをゆだねて息を引き取られた。イエスの生涯は父なる神に全てをお任せした歩みだった。イエスが最後に祈られたこの言葉は旧約聖書の詩編31篇6節から来ていると言われる。そして、この31篇はユダヤ人にとっても、初期のキリスト教徒にとっても、夕べの祈りであり、一日の営みを終えるときの祈りだったようだ。夕べもしくは夜寝る前に、「主よ、まことの神よ。私の霊を御手に委ねます」(詩編31・6)と祈ったのである。その日一日の苦労も、明日の心配も全て神にお任せして、眠りにつく。そんな毎日を過ごす人は幸いである。そういう人にとっては、もはや死は眠りとそんなに変わらないのかもしれない。その人の死に様は、その人の生き様を表すのである。

この詩篇31篇には「私の時は御手にあります」(16節)という言葉もある。人生百年時代と言われるように寿命は延びた。しかし、どんなに寿命が延びたとしても、人はいつか必ず死ぬことに変わりはない。命がその人に与えられている時間だとしたら、私たちにはどれぐらいの時間が残されているのだろう? マタイによる福音書第10章29〜31節でイエスは「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と言われる。1羽の雀さえ神のお許しなしには死ぬことはない。そうだとしたら、私たち一人一人の生涯が神の手の中に守られているのはなおさらではないかと、イエスは言われる。神は私たち一人一人のこの地上における『時』をご存じ。その時が来るまで、私たちの人生をしっかりと握ってくださり、守ってくださる。私たちの時は御手の中にあることを覚えたい。

さて「父よ、私の霊を御手に委ねます」というこの言葉は、今まさに息を引き取ろうとしている時に十字架上で語れた言葉。使徒信条で言われているように、イエスはこれから『よみ』に降ろうとされている。つまり、私たちの罪を負って死なれたこのお方は、死の苦しみをとことん味わわれようとされている。それでも、主は3日後には、父なる神がご自身を死から復活させてくださることを信じていた。たからこそ、この言葉を残すことができたのだろう。同じように、キリストにある私たちも肉体の死によって、魂は愛なる神のもとに帰ってゆくだろう。しかし、やがていつの日か、キリストの再臨と共に新しくされた世界で体のよみがえりにあずかると私たちは信じている。キリストが聖書の中で約束された通りである。『永遠の朝』を迎える、その日に望みを置きつつ、この世の旅路を歩んでいきたい。

posted by take at 23:14| Comment(0) | 説教
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