イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」。 (ヨハネによる福音書三・三、四)
キリスト教で救われることを「新生」と言います。これはイエスさまがある晩ニコデモとの対話の中で「だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と、言われた言葉に由来しております。また「生まれ変わり」もその類似語と言えるでしょう。しかし、この「新しく生まれる」とか「生まれ変わる」という言葉は必ずしもキリスト教の専用語ではありません。仏教思想にもありますし、また宗教とは関係のない日常生活の中で極自然に使われたりすることもしばしばあります。ところが、生まれる事の意味をよく考えてみますと、キリスト教の救いを象徴的に言い換えた言葉でこの言葉に勝るものは他に無いかも知れません、その言葉の中にキリスト教の救いの内容が的確に表現されているからです。
まず第一に、生まれるということは、存在の始まりを意味します。そこからスタートし、将来はあっても過去は問われない性質のものです。これはわたしたちがキリストの許に行く時、キリストはわたしたちがその生涯の中で積み重ねてきた罪過がどんなに大きくまた沢山あったとしても、過去はご自分の十字架の贖いによって精算済みとされ、その罪過の責任を一切、問わずにわたしたちを迎えてくれるというのが、キリスト教の救いなのです。
第二に、生まれるということは、自分の意志に基づいていない事実です。だれでも自ら望んでこの世に生を受けた人間は一人もいません。ある日ある時、気がついたら自分が居たという具合に、性も容姿も、両親も環境もすべて事後承認を強いられるのが生まれるということです。同じように、わたしたちがキリストによって救われるということは、すべて先行する神の愛 の摂理の中で計画されたお膳立てを素直に受容することなのです。ヨハネによる福音書一章十二、十三節に「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである」と書かれている通りです。もちろん、受容し信ずるときは自らの意志で決断をするわけですが、そうなる段取りを主がなされています。
第三に、生まれるということは、極めて個人的経験と言えましょう。時には双子、三つ子或いは五つ子などと例外もなきにしもあらずですが、例え二、三人一緒の誕生であっても人格的にはそれぞれの誕生であって、すぐれて個人的な経験と言って差し支えないでしょう。わたしたちの社会性は生まれた後の問題であり課題なのです。それと同じように、キリストの救いも「血すじによらず」、個人的な経験なのです。親や兄弟がどんな宗教を信じていても、要するに本人自身が個人的にキリストの前にどのような決断をするかが問題なのです。昔から日本は宗教を家族単位で受容するものと思われてきました。「お宅の宗旨はなんですか」という具合に家族の中の誰彼ではなく、お宅なのです。言い換えれば家長の信仰に右へ習えなのです。高校時代、社会科の担任が宗教調査をするから家の宗旨を聞いて来い、と言うので、とっさに「無い家はどうしますか」と質問したら、「無い家があるか、バカ!」と叱られました。帰ってから聞いてみると、やはり両親も祖父も何宗か要領を得ませんでした。「何宗か書いていかないとまた叱られる」と言うと、「友だちのを聞いてそれに合わせて持っていけ」と。これがわたしの両親の宗教感覚でした。わたしが何の反対もなく幼い時から教会に行けたのも、この両親の宗教音痴のお陰であったと今は感謝しております。まあ、そんな具合に「新しく生まれる」という意味の中に、「過去が問われず」、「自分の意志が関与できず」、「極めて個人的経験」という特徴がキリスト教の信仰経験の性質を的確に言い当てています。
第三に、生まれるということは、極めて個人的経験と言えましょう。時には双子、三つ子或いは五つ子などと例外もなきにしもあらずですが、例え二、三人一緒の誕生であっても人格的にはそれぞれの誕生であって、すぐれて個人的な経験と言って差し支えないでしょう。わたしたちの社会性は生まれた後の問題であり課題なのです。それと同じように、キリストの救いも「血すじによらず」、個人的な経験なのです。親や兄弟がどんな宗教を信じていても、要するに本人自身が個人的にキリストの前にどのような決断をするかが問題なのです。昔から日本は宗教を家族単位で受容するものと思われてきました。「お宅の宗旨はなんですか」という具合に家族の中の誰彼ではなく、お宅なのです。言い換えれば家長の信仰に右へ習えなのです。高校時代、社会科の担任が宗教調査をするから家の宗旨を聞いて来い、と言うので、とっさに「無い家はどうしますか」と質問したら、「無い家があるか、バカ!」と叱られました。帰ってから聞いてみると、やはり両親も祖父も何宗か要領を得ませんでした。「何宗か書いていかないとまた叱られる」と言うと、「友だちのを聞いてそれに合わせて持っていけ」と。これがわたしの両親の宗教感覚でした。わたしが何の反対もなく幼い時から教会に行けたのも、この両親の宗教音痴のお陰であったと今は感謝しております。まあ、そんな具合に「新しく生まれる」という意味の中に、「過去が問われず」、「自分の意志が関与できず」、「極めて個人的経験」という特徴がキリスト教の信仰経験の性質を的確に言い当てています。
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