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2017年05月13日

残りのパンくずはどうしたのでしょう

  イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないよう
    に、パンくずのあまりを集めなさい」。
                                     (ヨハネによる福音書六・五〜一四)

 ある祈祷会の席で五千人の給食のテキストをもとに短い奨励を
ました。給食のあとイエスさまの指示で集められた十二の筺のパン
くずに関して、わたしは当然のように、「このパンはあとで弟子た
ちが食べた違いありません」と軽い気持ちで言いました。
 祈祷会のあと、一人の信徒が「あれ本当に食べたんですか、くず
のパンを!」と尋ねてきました。「くずのパンを!」と強調される
と、草むらのあちらこちらに食い散らしてあるパンが想像されて、
わたしも内心余計なことを言わなければよかったと思いました。
しかし、思い直し「イエスさまが少しでもむだにならないようにと
言われているので食べたと思うのですが、ただ推測でものを言って
はいけないので、次の機会までに原典をよく調べておきましょう」
と言って、その日の集会は閉じました。
 ときどき、不意をつくような疑問や質問をされる信徒が居るとい
うことは牧師にとっては大変有り難いことです。まちがっても牧師
の面子にこだわったり、言い訳がましい理由で不勉強をかこつけて
はなりません。より広い、より深い学びへと後押しして下さる神さ
の御計らいと謙虚に受け止めるべきでしょう。
 その晩、さっそく例の五千人の給食のテキストを原典で読み直し
ました。お陰でいくつかの理解が深まりました。「くず」ではなく、
「余り」でした。しかも残り物の余りではなく未配分の「超過分」
なのです。更に、単なるパンではなくて「裂かれた」パンなので
が、それを訳出していない聖書の多いことに気がつきました。昔、
子供の頃から読み慣れていた文語訳の聖書が、「擘(さ)きたる餘り
をあつめよ」と、他の聖書より適切に訳出しています。
 さて、裂かれたパンと言えば、クリスチャンはごく自然に聖餐式
のパンを思い浮かべます。「裂かれたパン」と「ブドウ酒」とを拝受し
ながら十字架のイエスさまを思い浮かべ、それがクリスチャンの存
在根拠であり、且つその信仰が観念化しないようにと教会が大切
守ってきたサクラメントなのです。
 わたしはイエスさまの五千人の給食のテキストを読みながら、未
配分の裂かれたパンに心とらわれ、改めて自分や教会の大きな責任
を再確認いたしました
 わたしたちを本当の意味で生かすものはイエスさまの肉と血です。
わたしたちは既にこの恵みにあずかっていますが、わたしたちの周
囲にはまだまだ大勢の人がこの恵みを知らずにいます。
 未配分の裂かれたパンをわたしたちは決して無駄にしてはならず、
きちっと集めて、再配分の配慮をすることを求められているのでは
ないでしょうか。
 このような聖書の解釈を象徴的な解釈に過ぎると、指摘される方
もおありかと思いますが、ヨハネの福音書のこの後の、イエスさま
とユダヤ人たちの論争を見れば、まさに、パンの問題に関してイエ
スさまの象徴論とユダヤ人の具象論とが平行線をたどって、展開さ
れております。「象徴論」はある意味で信仰の世界のガイダンスと
して神学的にも評価されるべきものではないでしょうか。
 イエスさまの奇跡は、それによって助けられ、恵みを与えられた
者への「哀れみ」として以外に、その動機をいちいち探る必要はな
いかも知れません。従って、わたしが祈祷会の奨励の中で、集めら
れた十二の筺のパンが十二弟子の数に符合するからと、それを単純
に弟子たちの夜食に備えられたものと解釈して申し上げたわけでは
ないのです。食べ物を大切にするという生活経験のごく自然な勧め
として、そこにイエスさまの教育的意図を考える方がはるかに聖書
の読み方に夢やドラマが感じられるのではないでしょうか。
 わたしたちももっともっと啓示の御霊を仰ぎつつ、自由に想像力
を膨らませて聖書の世界をのぞかせて頂きたいものです。聖書が神
の言葉であると言っても、その書かれる過程においては、現代のわ
たしたちでも容易に想像できる、著者たちの「生活の座」があった
筈なのです。イエスさまが「無駄にならないように」と言われた
「未配分の裂かれたパン」、あなたはこれをどう読みますか。
posted by take at 16:32| Comment(0) | 礼拝メッセージ
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