リンク集

2017年05月09日

ラザロが病んでいますよ


    姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、

       「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる

        者が病気をしています」と言わせた。

                  (ヨハネによる福音書一一・三)


 ここには、「なぜ、あなたが愛しておられる者なのに病気なんかになるのですか」と言ったラザロの病気という現実をいぶかる空気はありません。これは大変大切なことだと思います。

マリヤもマルタもまた使いの者もそれは穏やかではなかったでしょうが、こんな筈ではないのにと、病そのものの現実をいぶかってはおりません。ただ、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と伝えているだけです。もちろん医者であれば往診の願いを込めての報告ではあったでしょう。

 あり得ぬことのみある浮き世、と言う賛美歌の歌詞があります。確かにそれは、わたしたちの社会の現実です。ですから、あってはならない事ばかりある、と憂いる気持ちはよく分かります。しかし厳密に言えば、あって欲しくないことばかり起きる浮き世だ、と言っているのでして、決してある筈がないことが起こると言っているのではありません。どんなに統制された管理社会でも予想外のハプニングのない社会はありません。

 もし、「わたしたち信仰者には祝福は臨んでも災いはよけて通る」、などと都合のいいことを考えるようなおめでたい者がおれば、そんな人はこの世の現実に耐えられないかも知れません。

 一人の熱心な教会の役員さんが元旦礼拝からの帰途、自動車で追突されました。彼がその事故による後遺症で二ヶ月近く入院をしていたとき、ある婦人の信徒が「先生、どうしてあんな熱心な人があんな不幸な目に遭ったんですか」と言ってきました。

 わたしは即座に、『なぜ、あんな人があんな事に、じゃあなくて、あんな人でこそあんな事にでしょう。だって信仰がなかったらすぐにあの出来事で躓いてしまうでしょう。耐えられるほどの信仰があるから、神さまはあの試練をお与えになって、いよいよ信仰を鍛えようとされたのですよ。「持っている人はいよいよ与えられて豊かになる」というみ言葉もあるじゃありませんか』と申し上げました。しばらくは分かったような分からないような顔をしていましたが、やがてうんうんと分かった様子でした。その時、ほとんど無意識にわたしの悪い癖、ブラックジョークが口をついて出てしまいました。

 「その点、あなたは日ごろから何事もなく平穏無事でよかったですね」と言うと、彼女はこの言葉には即座に反応し「ヤダ、先生!」と、苦笑されました。

 そうです、確かにわたしたちクリスチャンにもまたそうでない人にも同じように祝福と共に災いと言う冷徹な現実があります。ただ、わたしたちクリスチャンはマリヤ、マルタのように訴える言葉、すなわち祈りを知り、また訴える対象を知っていると言うことです。たとえ、わたしたちが訴え、願った通りに応えられなかったにしても、祈った祈りそのものは必ず神さまに聞かれてはおるのです。

 マリヤ、マルタへのイエスさまの対応をご覧ください。イエスさまは初めは彼女たちの望む形では対処されまんでしたが、彼女たちが思いもよらない、桁外れの恵みをもって応えられました。

 神さまはあらゆる状況の中で、ご自分の出る幕とそのタイミングを見ておられます。それを理解しかねた彼女たちは遅れてきたイエスさまに「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と相次いで訴えました。しかし本当にイエスさまは不在だったのでしょうか。いいえ、不在だったのは彼女たちの心に信仰が不在だったのです。イエスさまの御思いはラザロの枕もとを片時も離れなかった筈です。

 最初に申し上げましたように、主がことのほか愛されておる者も病に罹ることがあります。主が愛されておる者に病はあり得ないと言うなら、それこそ御利益信仰の主張です。もしそうなら素晴らしい栄光に満ちた主の「癒しの御業」も為されないことになりましょう。

 イエスさまはわたしたちを愛する故に、また神の栄光のためにグッドよりもベターを、そしてベターよりもベストをなさるお方です。したがってその御業の方法もわたしたちの意表をつくような場合も少なくありません。訴えて静かに待つ信仰を身に付けましょう。

posted by take at 11:06| Comment(0) | 礼拝メッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: