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2017年04月22日

主は優しく後ろから

    そう言って、うしろをふり向くと、そこに
           イエスが 立っておられるのを見た。
           しかし、それがイエスであることに気が
           つかなかった。
                       (ヨハネによる福音書二0・一四)


 ヘブル人への手紙十一章の冒頭に信仰の明快な定義が記されています。それによると、信仰とは「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と書かれています。使徒パウロもローマ人への手紙の中で、「目に見える望みは望みではない。なぜなら現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか」と言って、まだ見ていない事を望むから望みなのだと、神の子たちの栄光の自由に入る望みを抱かせようとしています。
 むかし、神学校在学中に母教会の恩師の奥様がクリスマスカードに「彼は望むべくもあらぬ時に、なお望みて信じたり」(ローマ人への手紙四・一八)とアブラハムの信仰に関するみ言葉を書いて送って下さいました。それはまさに、折りにかなう助けとなったお言葉だけに昨日のように覚えています。
 見通しがないからこその信仰だ、と言わんばかりのこの不思議な逆説が、クリスチャン人生のエネルギーとなるのですから痛快と言えば痛快ですね。
 ところが、「信仰」にはもう一面の見方があります。信頼とか、服従とか、委任とか、信心などと言った、人格的信頼関係の諸相として考えられる側面です。いずれも神さまの先行する愛に触発されて生まれるわたしたちの心の反応です。
 では、わたしたちのこうした信仰はいつでも神さまの愛や恵みに敏感に反応して即座に生まれるかと言うと必ずしも、そうとは限りません。悔いや反省の中であとから生まれてくる場合も少なくありません。
 信頼しなかったこと、不服従だったこと、どうしてもお任せ出来なかったことなど、数々の不信仰の反省を経て、深い悔い改めと共に確立される「信仰」があるのです。「信じます。不信仰なわたしをお助けください」(マルコによる福音書九・二四)と、悪霊につかれた子供の父親がイエスさまに告白した信仰は不信仰の懺悔でした。アウグスチヌスの名著「懺悔録」を「賛栄録」と訳される方もいるくらい、懺悔と賛美も表裏の関係にあります。
 苦しみや悲しみを伴った悔いの多い不信仰から立ち直った信仰こそがまた一段と輝きの増した信仰へと飛躍していくのかも知れません。そう言う意味では弟子たちの信仰もみな懐疑と恐れと不安のトンネルをくぐり抜けてはじめて使徒の名にふさわしい信仰者に鍛えられて行ったとも言えます。
 では、なぜ不信仰の危機に際して打ち捨てられず立ち直ることが出来るのでしょうか。それはただ一つ、主のとりなし以外の理由をわたしたちは見い出せません。あのカヤパの法廷におけるペテロのように一番の危機的な情況の中で主が祈り続け支えられたのです。
 「うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た」。たとえ後追い、思い起こしであっても、その反省の中にわたしたちの信仰が確立されて行くことを主はお許しになり、優しく後ろべから、物に影が添うように身近にあって支え続けて下さるのです。
 人それぞれの個性が違うように、わたしたちの信仰経験も決して画一的ではありません。それぞれ特異な信仰の経験をたどられます。ある者は向こう見ずの捨て身の信仰、それはまさに勇敢な先取りの信仰です。しかし、それが理想的な信仰と分かっていても、それが出来ずに深い後悔と反省の中で落ち込んでしまう者もいるのです。
 遅々とした歩みで一番後ろに取り残されてしまったと思っている時にも、なお主は更にその後ろからそっと近づいて来られます。
 また、「うしろ」はすぐ傍の「背後」ばかりではありません。遠い過去もうしろです。今、わたしたちは人生過ぎ越し方のさまざまな局面を反省するとき、まさに危機(クライシス)の局面で主がしっかりお立ちくださっておられたと確認することができます。それこそ、わたしたちが今在ることの「恵のしるし」ではないでしょうか。

posted by take at 11:04| Comment(0) | 礼拝メッセージ
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