2024年4月7日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。 聖書箇所は「ルカによる福音書」第24章13節〜35節、説教題は「その姿が見えなくても」。
イエスが復活した日の夕方のこと。 エルサレムでのイエスの処刑にショックを受けたふたりの弟子がエマオという村に向かって歩いている。 そこに現れたのは、復活のイエスご自身。ところが、イエスが一緒に歩いているのに、ふたりはまったく気がつかずに、その目は遮られている。弟子たちにとっては、イエスが復活されることは、思ってもみなかったこと。その不信仰の故に、目の前のイエスに気づかないのだろう。
また、復活された主のお姿は生前のそれとはやや異なっていたものと思われる。やがて、いつの日か、われわれが復活の体を頂くときも、以前とは少々違って見えるかもしれない。だけども、よく見ると確かに、お互いを認識することができる。 復活の体とはそういうものなのではないだろうか。
いずれにしても、ふたりの弟子は自分たちが希望を置いていたイエスという偉大な教師が亡くなってしまったことを嘆きつつ切々と訴えている。しかも、十字架につけられるという悲惨な最期を遂げたことを。そして、ふたりが訴えているのは、当のイエスご自身に対してである。
この箇所で23節までのイエスは、一緒に歩いて弟子たちの話しをじっくりと聴く、良きカウンセラーであった。 痛みと喪失の物語りを聴いてもらうことによって、ふたりの心は少しずつ解きほぐされたのではないだろうか。一方、24節以降のイエスは、偉大な教師である。イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」のだ。後にふたりは、旅の間、イエスは常に傍らを歩いておられたと気づく。その時「私たちの心は燃えていたではないか」と語り合う。聖書を解き明かす主の言葉に愛を感じたからこそ、弟子たちの心の内側が燃えたのであろう。 そこに何とも言えぬ暖かいものを感じたのだ。
われわれはイエスがそばにいることに 得てして気づかない。この場面でイエスが弟子たちにパンを渡したその手首に、ふたりは十字架の傷跡を見たのではないかと、ある説教者は指摘する。そして、目の前のその人がイエスであると気づいた瞬間、そのお姿は見えなくなった。 これは何を意味しているのだろう?イエスがどんな時でも共にいてくださることに気づくなら、それで十分なのである。見えるか、見えないかは、実は信仰にとってそれほど大切ではない。 もちろん、われわれは、やがて終わりの日にイエスとお会いすることを信じて、待ち望んでいる。でも、その日が来るまで、主はいつでも共にいてくださる。このことを信仰によって受け取るならば、それで十分なのである。
そして、われわれには、聖書と聖霊と教会が与えられている。教会は共に主を仰ぐ 、信仰者の共同体である。 ペテロの第一の手紙第1章8〜9 節には、「あなたがたは、 キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです」とある。この言葉に励まされながら、信仰によってこの世の旅路を歩んでいこう。
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2025年07月01日
「ルカによる福音書」第24章1節3〜35節「その姿が見えなくても」
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