「主の祈り」はキリストが弟子たちに教えられた祈り。その中で、今日取り上げるのは10節の後半、「御心が行われますように 天におけるように地の上にも」。「御心」とは神の意志であり、その望みである。天とは神のおられるところ。言わば神の住まいであり、必ずしも空の上ではない。一方、地とは私たちのこの世界のこと。天は地とは別の領域、別の空間である。神、御子、天使の住まいがそこにある。天は今の私たちには目で見ることができない。しかし、天と地はそんなに離れているわけではない。それどころか、両者には接点があると言う人さえいる。そして、この節からわかることは、天では神の御心が行われているということ。しかし、地では必ずしも行われていない。だからこそ、御心が天で行われるように、地でも行われるようにと私たちは祈るのである。
インターネットYahoo!知恵袋で「神がいるなら、なぜ戦争や殺人事件があるのですか? 神さまは止めないのですか?」という質問があった。簡単には答えられない問いだが、キリスト者の立場から言うと「世界に悪が蔓延っているのは、私たち人間の罪のため。人がつくり主なる神を無視して、自分の好む道を歩み始めたから」ということになる。いずれにしても、大切なのは、この世界では神の望まれることが必ずしも行われていない現実があること。それこそ、戦争があり、凶悪犯罪もある。この世では神の御心は必ずしも行われていない。だからこそ私たちは祈るのである。地においても天でと同じように、御心が行われるようにと。そして、祈りつつ行動する。キリスト者一人一人がこの祈りを真剣に祈り始めるなら、それこそ世界が変わるのではないか。私たちの生活が変わり、家庭が変わり、教会が変わる。世界は私たちの祈りを必要としている。主の祈りによって、神はこの世界を崩壊から守ってくださり、平和な社会の実現へと繋がっていく。
次に、神の御心が地で行われるためには、私たちが毎日の生活において御心を求めなければならない。私たちが神の御心を選び取ることである。私たちの毎日は選択の連続である。毎朝の起床でベル
十字架の前夜、イエスはゲッセマネの園で、父なる神に向かって祈られた。マタイによる福音書第26章39節には「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」とある。前半はイエスの率直な心である。イエスは父なる神に『できることなら、十字架を取り除けてください』と祈られた。しかし、後半では「わたしの思いのままにではなく、みこころのままに」と神の御心に沿うことを決意する。そして42節でも「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と、御心を受け入れる決意を重ねている。つまり、私たちの罪を負って十字架で死なれることを御父の御心として受け入れられた。十字架を選び取られたのである。
イエスの十字架の選択は、痛みと苦しみを伴う行動だった。しかし、十字架があるからこそ、復活もある。苦難があるからこそ、栄光もある。神は十字架の死に至るまで従順だったイエスを高く上げ、全てにまさる名をお与えになった(ピリピ人への手紙第2章8〜9節)。同じように、私たちも神の御心を選び取るとき、痛みや苦しみが伴うこともあるかもしれない。しかし、長い目で見るなら、それは心からの喜びと満足を与えてくれる道であることを覚えたい。