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2025年07月11日

「マタイによる福音書」第6章9〜15節「主の祈りC御心が行われますように」

7月6日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生による説教。聖書箇所はマタイによる福音書第6章9〜15節。タイトルは「主の祈りC御心が行われますように」。

 「主の祈り」はキリストが弟子たちに教えられた祈り。その中で、今日取り上げるのは10節の後半、「御心が行われますように 天におけるように地の上にも」。「御心」とは神の意志であり、その望みである。天とは神のおられるところ。言わば神の住まいであり、必ずしも空の上ではない。一方、地とは私たちのこの世界のこと。天は地とは別の領域、別の空間である。神、御子、天使の住まいがそこにある。天は今の私たちには目で見ることができない。しかし、天と地はそんなに離れているわけではない。それどころか、両者には接点があると言う人さえいる。そして、この節からわかることは、天では神の御心が行われているということ。しかし、地では必ずしも行われていない。だからこそ、御心が天で行われるように、地でも行われるようにと私たちは祈るのである。

インターネットYahoo!知恵袋で「神がいるなら、なぜ戦争や殺人事件があるのですか? 神さまは止めないのですか?」という質問があった。簡単には答えられない問いだが、キリスト者の立場から言うと「世界に悪が蔓延っているのは、私たち人間の罪のため。人がつくり主なる神を無視して、自分の好む道を歩み始めたから」ということになる。いずれにしても、大切なのは、この世界では神の望まれることが必ずしも行われていない現実があること。それこそ、戦争があり、凶悪犯罪もある。この世では神の御心は必ずしも行われていない。だからこそ私たちは祈るのである。地においても天でと同じように、御心が行われるようにと。そして、祈りつつ行動する。キリスト者一人一人がこの祈りを真剣に祈り始めるなら、それこそ世界が変わるのではないか。私たちの生活が変わり、家庭が変わり、教会が変わる。世界は私たちの祈りを必要としている。主の祈りによって、神はこの世界を崩壊から守ってくださり、平和な社会の実現へと繋がっていく。

 次に、神の御心が地で行われるためには、私たちが毎日の生活において御心を求めなければならない。私たちが神の御心を選び取ることである。私たちの毎日は選択の連続である。毎朝の起床でベルベルを止めるか止めないか、今日はどんな服装をするのかに始まり、選ばなければならないことがたくさんある。ある調査によると、成人は1日に3万5千回の選択をしているそうだ。それらの中には些細なものもあれば、人生を左右するような重要なものもあるだろう。自分の願いと神の御心が一致するなら、それは間違いのない選択である。しかし、時には自分の願いが、神の心と一致しないこともある。そんな時は、どうしたらいいのだろう?

十字架の前夜、イエスはゲッセマネの園で、父なる神に向かって祈られた。マタイによる福音書第26章39節には「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」とある。前半はイエスの率直な心である。イエスは父なる神に『できることなら、十字架を取り除けてください』と祈られた。しかし、後半では「わたしの思いのままにではなく、みこころのままに」と神の御心に沿うことを決意する。そして42節でも「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と、御心を受け入れる決意を重ねている。つまり、私たちの罪を負って十字架で死なれることを御父の御心として受け入れられた。十字架を選び取られたのである。

イエスの十字架の選択は、痛みと苦しみを伴う行動だった。しかし、十字架があるからこそ、復活もある。苦難があるからこそ、栄光もある。神は十字架の死に至るまで従順だったイエスを高く上げ、全てにまさる名をお与えになった(ピリピ人への手紙第2章8〜9節)。同じように、私たちも神の御心を選び取るとき、痛みや苦しみが伴うこともあるかもしれない。しかし、長い目で見るなら、それは心からの喜びと満足を与えてくれる道であることを覚えたい。


posted by take at 17:58| Comment(0) | 説教

2025年07月01日

「ルカによる福音書」第24章1節3〜35節「その姿が見えなくても」

2024年4月7日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。 聖書箇所は「ルカによる福音書」第24章13節〜35節、説教題は「その姿が見えなくても」。

イエスが復活した日の夕方のこと。 エルサレムでのイエスの処刑にショックを受けたふたりの弟子がエマオという村に向かって歩いている。 そこに現れたのは、復活のイエスご自身。ところが、イエスが一緒に歩いているのに、ふたりはまったく気がつかずに、その目は遮られている。弟子たちにとっては、イエスが復活されることは、思ってもみなかったこと。その不信仰の故に、目の前のイエスに気づかないのだろう。

また、復活された主のお姿は生前のそれとはやや異なっていたものと思われる。やがて、いつの日か、われわれが復活の体を頂くときも、以前とは少々違って見えるかもしれない。だけども、よく見ると確かに、お互いを認識することができる。 復活の体とはそういうものなのではないだろうか。

いずれにしても、ふたりの弟子は自分たちが希望を置いていたイエスという偉大な教師が亡くなってしまったことを嘆きつつ切々と訴えている。しかも、十字架につけられるという悲惨な最期を遂げたことを。そして、ふたりが訴えているのは、当のイエスご自身に対してである。

この箇所で23節までのイエスは、一緒に歩いて弟子たちの話しをじっくりと聴く、良きカウンセラーであった。 痛みと喪失の物語りを聴いてもらうことによって、ふたりの心は少しずつ解きほぐされたのではないだろうか。一方、24節以降のイエスは、偉大な教師である。イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」のだ。後にふたりは、旅の間、イエスは常に傍らを歩いておられたと気づく。その時「私たちの心は燃えていたではないか」と語り合う。聖書を解き明かす主の言葉に愛を感じたからこそ、弟子たちの心の内側が燃えたのであろう。 そこに何とも言えぬ暖かいものを感じたのだ。

われわれはイエスがそばにいることに 得てして気づかない。この場面でイエスが弟子たちにパンを渡したその手首に、ふたりは十字架の傷跡を見たのではないかと、ある説教者は指摘する。そして、目の前のその人がイエスであると気づいた瞬間、そのお姿は見えなくなった。 これは何を意味しているのだろう?イエスがどんな時でも共にいてくださることに気づくなら、それで十分なのである。見えるか、見えないかは、実は信仰にとってそれほど大切ではない。 もちろん、われわれは、やがて終わりの日にイエスとお会いすることを信じて、待ち望んでいる。でも、その日が来るまで、主はいつでも共にいてくださる。このことを信仰によって受け取るならば、それで十分なのである。

そして、われわれには、聖書と聖霊と教会が与えられている。教会は共に主を仰ぐ 、信仰者の共同体である。 ペテロの第一の手紙第1章8〜9 節には、「あなたがたは、 キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです」とある。この言葉に励まされながら、信仰によってこの世の旅路を歩んでいこう。

posted by take at 14:27| Comment(0) | 礼拝メッセージ