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2025年04月10日

マルコによる福音書第16章1〜8節「広く大きなキリストの心」

2024年3月31日、尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。この日はイースター(復活祭)。聖書箇所はマルコによる福音書第16章1〜8節。説教題:「広く大きなキリストの心」。キリスト教会には3つのお祝いがある。クリスマス、ペンテコステ、そしてイースター。中でもイースターは、キリスト復活の記念日であるから、信仰的に最も意味のある日と言えよう。

マルコ福音書第16章では、3人の女性が安息日明けにイエスの墓に急ぐ。安息日には何の労働もできないので、その翌朝に彼女らはイエスの亡骸に香料を塗ろうとしている。当時の墓は、今と違って、洞穴に前室と後室があり、後室に遺体を火葬せずに安置。そして、直径1mくらいの大きな石を置いて洞穴を外側から塞いだ。3人の女性は「どうしたら石を取り除けるか?」と話し合いながら墓に向かった。確かに女性3人でこの石をどかして中に入るのは至難の業。 「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石がすでに転がしてあった」というのだ(4節)。しかも、墓の中には天使がいて、イエスの復活を告げられたのだ。ここで注目したいのは「目を上げて」という言葉。3人の女性たちは目を上げてみるまでは、心配していた。あの大きな石をどうしたらいいのか、誰がどかしてくれるのかと。まさかイエスが復活されているとは、夢にも思っていなかった。でも、目を上げて見たとき、全てが一変した。石は既に転がしてあった。心配したことは全く意味のないことだったと判明したのだ。

イギリスのジョン・ストット牧師の語った有名な例話がある。 (ちなみにジョン・ストットは米国のビリー・グラハム と比肩する著名な牧師である。 ) 「あなたがたの目を上げてください。皆さん方は、もちろん時代の子です。しかし同時に永遠の子でもあるのです。天の市民であって、地上ではよそ者、寄留者、…巡礼者です。ある若い人が道で5ドル紙幣を見つけました。それからというもの、歩くときには目を上げることをしなかった。長年かけて彼が収集した物は、29,415個のボタン、54,172個のピン、12セント。背中は曲がってしまい、惨めな身になった。この若者が何を失ったかを考えてみてください。彼の目はいつも溝に向けられていたので、日光の輝き、星の光、友人の微笑み、春の花を見ることができませんでした。このようなキリスト者があまりに沢山います。私たちにとって大切な勤めがあります。しかし自分がどのような存在か、自分がどこに行こうとしているかを忘れるほど、それらに心を奪われてはなりません。 」

私たちの問題は、あまりにもしばしば人間的な見方、この世的な見方にとらわれてしまうこと。下ばかりを見ていると、色々なことが気になりだす。視野が狭くなり、近視眼的になる。そんなとき、『目をあげなさい』と神の言葉は私たちに語りかける。キリストは死から復活された。父なる神は御子イエスを死人の中からよみがえらせてくださった。そして、キリストがよみがえられたということは、今も生きておられるということ。このお方は世の終わりまで私たちと共におられると約束してくださった。目を上げよう!

さて、マルコ16章に立ち返ると、天使は3人の女性にイエスからの伝言を告げる。自らの伝道の起点であるガリラヤ湖での再会をイエスは約束された。しかしその伝言には弟子たちとは別にペトロを名指ししていた。7節には「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」とある。「弟子たち」と言えばペトロも含まれるはずなのに、どうしてわざわざ名指しされたのだろう? イエスが捕らえられたとき、ペトロはイエスの予告通り、鶏が2度鳴く前に3度「イエスなどという人は知らない」と否定してしまった。イエスが復活されたとしても『どの面下げて会えようか』と煩悶するであろうペトロの心を案じてのこと。『私はあなたにも来てほしい。あなたとも会いたいのだ』というイエスの思いが込められている。つまり、ペトロはイエスを見捨てたが、イエスはペトロを見捨てていなかった。

現代のこの社会では一度過ちを犯した人は徹底的に叩かれる。 SNSの炎上などによって、匿名で多くの人がひとりの人を徹底的に打ちのめすこともあるだろう。しかし、たとえ過ちを犯しても、イエスは決して私たちを見捨てない。あくまでペトロを立ち直らせようと、「弟子たちとペトロに伝えなさい」と念を押されたように。人を見捨てず、切り捨てず、その人が悔い改めて、回復して、歩み出すのをあたたかく見守ってくださる。どんなに裏切られても、主の広く大きな愛は変わらないのである。

posted by take at 09:16| Comment(0) | 説教