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2024年11月16日

ヨハネ福音書第 19 章 30 節「成し遂げられた」

3月17日の説教。「成し遂げられた」(口語訳では「すべてが終わった」)。これは十字架におけるキリストの6番目の言葉である。今やイエスは十字架上でご自身のなすべき全てのことを遂げられた。もっと言うなら、この世の生涯におけるご自身の任務を完了された。

では、イエスの任務とは何だろうか? お気に入りのワーシップソングのひとつに「Because He Lives」という曲がある。その歌詞を和訳すると次のようになる。

♪ 神はご自身の御子を私たちに与えられた
人々はこの方をイエスと呼んだ彼は愛するため いやすため ゆるすために来てくださった
彼は生き そして死なれた
私のゆるしを獲得するため
空の墓は私の救い主が生きていることを証明している♪


神はわれわれをいやすため、 ゆるすために御子を遣わされたという。 つまり、 御子の生き様(ざま) によってご自身がどのようなお方かを示すためこの方を世に送られた。 ヨハネ福音書第 14 章 9 節で、「私を見た者は、父を見たのだ」とイエスは言われる。私たちは御子イエスの姿に、神ご自身を見ることができる。また、「彼は生き そして死なれた 私のゆるしを獲得するため」とある。これはキリストの十字架の贖いを歌っている。「私のゆるしを獲得するため」の部分は、「私のゆるしを買い取るため」とも訳せる。 聖書には、罪を借金にたとえる箇所がいくつかある。そうだとしたら、 イエスが私たちの罪のために十字架で死なれたことは、 私たちの借金を肩代わりしてくださったことを意味している。この私がゆるされるため、代価が支払われた。つまり、「成し遂げられた」 とは、キリストの十字架の故に、 私たちの借金は支払い済みにされた。言わば、完済されたということ。私たちは神に立ち返り、信仰によって、この恵みを受け取ることができる。

ルカ福音書第 14 章 15 節〜24 節で、イエスは大宴会のたとえを語っておられる。これは神の御国における喜びを大宴会にたとえた物語り。宴会の主催者は招いた客たちの所へ僕(しもべ)を送ってこう言わせた。「もう準備ができましたので、お出でください。」準備はすべて整った。後は喜び楽しむばかり。なぜなら、イエスが全てを成し遂げられたから。私たちが罪ゆるされて、救われて、永遠の命を頂くために、 必要なすべてのことをあの十字架で成し遂げてくださった。

神学校のある教師が「礼拝とはセレブレーション(お祝い)である」と語った。すなわち赦されていること、救われていることへのお祝いである。 受難週(レント)は、 復活祭であるイースターの 46 日前から始まる。 どうして、40 日前ではなく、46 日前なのか?その期間の 6回の日曜日は受難節に含めないからである。 日曜日はキリストの復活を記念して喜び、 祝う日。 だから、その日に、悲しそうな顔、苦しそうな顔をしているのは相応しくない。それで、古代の信仰者たちは日曜日を受難節から除いた。私たちは主が成し遂げてくださったことを祝うのである。

さらに、ヘブライ人への手紙第 12 章 2 節には「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、 走ろうではないか」とある。 イエスはその生涯において父なる神のお心に従順に歩まれた。 罪を犯すことなく、十字架の死に至るまで従順に歩まれた。 今や、私たちはこのお方の歩まれた足跡(そくせき)に従って歩むように招かれている。マラソンは先頭を走る人よりも、その後ろにピッタリついて2番手で走る方が楽であると言われる。 先頭ランナーは、風圧を受けて空気抵抗があるので困難であるという。キリストはわれわれのために先頭を切って走られた。この世のあらゆる誘惑を受け、試練を通られ、十字架の苦しみをも乗り越えられた。私たちはただこのお方の後に続いて行けばいいのである。イエスは成し遂げてくださった。この世の戦いに既に勝利をおさめられた。私たちは先立つこのお方について行けばいいのである。
posted by take at 03:19| Comment(0) | 説教