十字架上で苦しみの極致にあったイエスは、自らの渇きを訴えられた。「渇く」と言われたイエスの言葉について、ある説教者は これは神から見放された『霊的な渇き』」と表現した。確かに、そうかもしれない。しかし、私たちは神の御子は『まことの人』としてこの世に来られたことを忘れてはならない。初期ローマ教会では、異端とされたグノーシス派が「イエスは神であるから、その肉体は幻である」と述べたという。しかし、いつの時代も正統的なキリスト教会は「キリストはまことの神であり、同時にまことの人である」と告白してきた。私たちと全く同じ生身の体を持っておられたイエスは『肉体の苦痛』と決して無縁ではなかった。磔刑にされたイエスは、人間としての弱さや痛みをどれほど味わわれたことだろう。新聖歌209番「慈しみ深き」には、私たちの悩みや苦しみに寄り添ってくださるイエスの姿が歌われている。




私を信仰に導いてくれた母の晩年は病との闘いの日々であった。息を引き取る直前には、医師によると、全力でマラソンを走っているような苦しみだった。そんな母を私たち家族はこの賛美歌を歌って見送った。まさに母の弱さ苦しみをも知ってくださるイエスが、その弱さの中にも共にいてくださったと信じている。人として十字架の苦しみを受けられたイエスだからこそ、私たちのいかなる苦しみの中にも共にいてくださる。肉体的な痛みも、精神的な苦しみも。それらの痛み苦しみを共に担ってくださり、その身に引き受けてくださるのだ。慈しみ深き友なるイエスは、われらの弱きを知りて憐れむ!