1月14日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイ福音書第3章13節から17節。「キリストの洗礼と、私たちの洗礼」。
これは30歳になったイエスが、バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けるシーン。ヨハネが人々に授けていた洗礼は、罪の悔い改めを伴った。罪がゆるされるための洗礼であった。ところが、イエスは罪の全くないきよいお方。罪のないイエスが、罪がゆるされるための洗礼を受けるのは矛盾ではないか。ヨハネはイエスに洗礼を授けることを躊躇する。それでも、イエスはヨハネから洗礼を受けられた。それは罪のないイエスが、罪人である私たちと同じ立場に立ってくださったことを意味している。やがてこのお方は私たちの罪を背負って十字架で死なれる。つまり、イエスはこの時、十字架への道を歩み始められたのだ。
イエスの洗礼後に聞こえた天からの声は、まさに神さまの声だった。それはイエスが、父なる神の愛する子であるということ。これこそがイエスの真の姿である。私たちがキリストを信じて洗礼を受けるとき、私たちもイエスの立場に立たせて頂ける。つまり、罪のある私たちが罪をゆるされて、神の子どもとして頂けるのだ。キリストを通して天の父は私たち一人ひとりにも語りかけてくださる。「あなたは私の愛する子」と。
宗教改革の担い手だったマルチン・ルターの人生は戦いの連続だった。それゆえに体調の不調に悩まされることも多かった。不眠、眩暈、便秘、鬱症状‥。ルターの部屋の壁にはインクの染みがある。これは悪魔が、執筆中のルターを訪れた際に、ルターが悪魔にインクの壺を投げた跡と言われる。その際にルターは、額に手をやって「私は洗礼を受けている、私は洗礼を受けている」と自らに言い聞かせたという。このように、洗礼は私たちが罪ゆるされ、神さまに愛されている神の子どもであるという印である。
今回の箇所に続く、マタイ福音書第4章では、イエスは荒れ野で悪魔の試みを受けられる。これが人生である。神の愛の御声を聞く喜びの時もあれば、荒れ野をさ迷うような試練の時もある。しかし、そんな時こそ、私たちは思い出したい。キリストを信じ、洗礼を受けた私たちは、神の子である。神は決してあなたを見捨てない。
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2024年05月31日
キリストの洗礼と、私たちの洗礼
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2024年05月01日
悔い改めにふさわしい愛の実を
1月7日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイによる福音書3章1〜12節。説教題は「悔い改めにふさわしい愛の実を」。
毎年発行されている「日々の聖句(ローズンゲン)」に掲載されている「2024年の聖句」は「何事も愛をもって行いなさい」というコリントの信徒への手紙第一16章14節のことば。年頭にあたり、この言葉を神から与えられた今年の標語聖句として心に刻みたいと思っている。
さて、マタイ3章は、キリストに先立って遣わされた預言者ヨハネの物語。「悔い改めてよ。天の国は近づいた」と語るヨハネのもとに人々は続々と集まった。ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授けていたが、それは罪の告白を伴うものであった。ヨハネの授けた洗礼(バプテスマ)は罪がゆるされるためであった。すると、そこにファリサイ派やサドカイ派の人々もやって来た。彼らはユダヤの宗教家で、旧約聖書の律法を重んじる人々であった。7節後半から12節はヨハネがこの人々に語ったことば。「毒蛇の子らよ」と最初に呼びかけているように、何とも穏やかではない。ここで特に注目したいのは「悔い改めにふさわしい実を結べ」という8節の言葉。さらに、10節には「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」という厳しい内容もあり、戸惑いを覚える。それにしても、「悔い改めの実を結べ」と言われると、どう思うだろうか?『いつまでも同じ過ちを繰り返していてはならない。もっとまじめなクリスチャンにならなければならない。もっと立派な信仰者にならなければ』と、そんな思いにさせられるかもしれない。しかし、注意したいのは、これらの言葉はファリサイ派やサドカイ派の人々に語られたということ。この人々は旧約の戒め、即ちユダヤの宗教的な決まり事をきちんと守ってきた。いわば、『まじめ』を絵に描いたような人たち。そんな彼らが一体、何を悔い改めたらいいのだろうか?
19世紀に活躍したアメリカのサム・ジョーンズという牧師は、ある時「いやしの集会」を開いた。これは、具体的な罪の行為を悔い改めて、新しい人生を歩み出すための、決意の集会であった。師は参加者に自分の罪の象徴となる物を持ち寄って、それらを廃棄することを呼びかけた。講壇の前にはギャンブルの道具や不倫相手の写真などが次々と積み上げられた。参加者は罪からの解放を味わい、喜びと平安に満たされた。すると、そこに、師のよく知った人が前に進み出た。それは、敬虔な女性信徒サラであった。「あなたは何を捨て去りたいのですか?」と驚くジョーンズ師に、彼女は答えた。「私は今まで何もしてこなかったのです。そのことを悔い改めたい」と。
山上の垂訓の中でイエスは「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と説いた(マタイ7:12)。愛こそ律法の本質であると聖書は語る。そして、隣人を愛するとは、具体的には自分が人にしてもらいたいことを人にすることであると。私たちはまずキリストによって現わされた神の愛を精一杯に受け取りたい。そうしてこそ、私たちも受け取った愛を誰かに分け与えることができるだろう。人は愛されてこそ、愛することができる。私たちは神の愛という栄養分を吸収し、成長し、そうして隣人への愛という『実』を結ぶのである。
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毎年発行されている「日々の聖句(ローズンゲン)」に掲載されている「2024年の聖句」は「何事も愛をもって行いなさい」というコリントの信徒への手紙第一16章14節のことば。年頭にあたり、この言葉を神から与えられた今年の標語聖句として心に刻みたいと思っている。
さて、マタイ3章は、キリストに先立って遣わされた預言者ヨハネの物語。「悔い改めてよ。天の国は近づいた」と語るヨハネのもとに人々は続々と集まった。ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授けていたが、それは罪の告白を伴うものであった。ヨハネの授けた洗礼(バプテスマ)は罪がゆるされるためであった。すると、そこにファリサイ派やサドカイ派の人々もやって来た。彼らはユダヤの宗教家で、旧約聖書の律法を重んじる人々であった。7節後半から12節はヨハネがこの人々に語ったことば。「毒蛇の子らよ」と最初に呼びかけているように、何とも穏やかではない。ここで特に注目したいのは「悔い改めにふさわしい実を結べ」という8節の言葉。さらに、10節には「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」という厳しい内容もあり、戸惑いを覚える。それにしても、「悔い改めの実を結べ」と言われると、どう思うだろうか?『いつまでも同じ過ちを繰り返していてはならない。もっとまじめなクリスチャンにならなければならない。もっと立派な信仰者にならなければ』と、そんな思いにさせられるかもしれない。しかし、注意したいのは、これらの言葉はファリサイ派やサドカイ派の人々に語られたということ。この人々は旧約の戒め、即ちユダヤの宗教的な決まり事をきちんと守ってきた。いわば、『まじめ』を絵に描いたような人たち。そんな彼らが一体、何を悔い改めたらいいのだろうか?
19世紀に活躍したアメリカのサム・ジョーンズという牧師は、ある時「いやしの集会」を開いた。これは、具体的な罪の行為を悔い改めて、新しい人生を歩み出すための、決意の集会であった。師は参加者に自分の罪の象徴となる物を持ち寄って、それらを廃棄することを呼びかけた。講壇の前にはギャンブルの道具や不倫相手の写真などが次々と積み上げられた。参加者は罪からの解放を味わい、喜びと平安に満たされた。すると、そこに、師のよく知った人が前に進み出た。それは、敬虔な女性信徒サラであった。「あなたは何を捨て去りたいのですか?」と驚くジョーンズ師に、彼女は答えた。「私は今まで何もしてこなかったのです。そのことを悔い改めたい」と。
山上の垂訓の中でイエスは「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と説いた(マタイ7:12)。愛こそ律法の本質であると聖書は語る。そして、隣人を愛するとは、具体的には自分が人にしてもらいたいことを人にすることであると。私たちはまずキリストによって現わされた神の愛を精一杯に受け取りたい。そうしてこそ、私たちも受け取った愛を誰かに分け与えることができるだろう。人は愛されてこそ、愛することができる。私たちは神の愛という栄養分を吸収し、成長し、そうして隣人への愛という『実』を結ぶのである。
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