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2023年12月22日

信頼する者の力

11/19の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所は創世記第121020節。テーマは「信頼する者の力」。

カナンの地が飢饉に喘いだため、アブラハムたち一族はエジプトに身を寄せることとした。エジプトが近づいたとき、アブラハムは妻のサライにこう言った。「あなたが美しい女だということを私はよく知っている。エジプト人があなたを見れば、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなただけを生かしておくだろう。だからあなたは、自分のことを私の妹だと言ってほしいのだ。そうすれば、あなたのお陰で私は手厚くもてなされ、命は助かるだろう。」(1113節)

アブラハムの予想通り、サライの美しさはエジプト中で評判となり、国王はサライを召し入れた。しかし、神はこのことの故に、王とその宮廷に恐ろしい災いを下された。結局はサライがアブラハムの妻であることは、王に知られるところとなる。王はアブラハムに詰め寄りながらも、妻サライを返し、与えた財産と共に一行をエジプトから追放した。何とも後味の悪い話である。アブラハムは願った通り、命も守られ、財産も増し加わった。しかし、エジプトの国王らの前でとんだ恥をかいたのではないだろうか。本来、『祝福の基』であるはずのアブラハムがエジプトの国に『祝福』どころか『災い』をもたらし、とんだ迷惑をかけてしまった。どうしてこんなことになったのだろうか?

アブラハムは『相手は邪悪なエジプト人だから、こちらも嘘の一つぐらいつかないことには自分を守れない』とでも思ったのだろうか。しかし、エジプトの国王らは当初アブラハムが心配したほどには邪悪な人々ではなかったよう。アブラハムに対して『サライがあなたの妻だとわかっていたら、彼女を召し入れたりはしなかった』という旨を告げている。アブラハムは自分の頭の中で不安をつくり出し、このような愚かな過ちを犯したのではないだろうか。

 俗に「心配ごとの9割は起こらない」と言われる。確かに、日常生活や仕事において、『あれこれ心配したけど、結局そのことは起こらなかった』というのはよくある話し。むしろ予期せぬ問題が現れる。そうなると心配には意味がない。イザヤ書第3015節には「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」とある。これを新改訳では「落ち着いて信頼すれば、力を得る」。この場合、もちろん誰を信頼すべきかは神であり、キリストである。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ2820)と約束された復活のキリストを信頼する。

 しかし、もう一つ意外と大切なのは『人を信頼すること』。まわりはみんな鬼だと思っている人はどうしても自己防衛的になってしまう。自分を守ろうとするあまり、思わぬ過ちを犯すかもしれない。ノートルダム清心女子大の故・渡辺和子理事長(大ベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」著者)は「人格論」という授業の中で「人を98%信頼すること」を教えた。その理由として「人間は不完全なものであって、神ではない」。誰かを100%信頼すると、その人の僅かな過ちでもゆるせなくなる。何かあっても相手をゆるせるように、2%は取っておく。私たちは神を100%信頼し、まわりの人を98%信頼していれば、平安である。

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2023年12月01日

命を用いる

1112日の尾久キリスト教会における牧師・広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はマタイによる福音書第251430節、テーマは「命を用いる」。

聖路加国際病院の名誉院長だった日野原重明先生は、父親が牧師で、7歳の時に洗礼を受けた。1970年の「よど号ハイジャック事件」に58歳で遭遇した。4日間の監禁で、死を覚悟したそうだ。幸いにして韓国の空港で、人質が解放されて命拾いをした。この時に日野原先生は決心した。『これまでは自分の名誉のために生きてきた。でも、これからは、与えられた命を誰かのために使おう』と。後年、日野原先生は全国の小学校に「命の授業」のために回った。ここで、命の尊さ、命の意味を教えた。命は目に見えない。それは命が時間であるから。「君たちの持つ時間を、自分以外の何かのため、誰かのために使うことを学んで欲しい」と。

今日の聖書箇所はキリストの語られたたとえ話。ある主人が使用人3人に私財を預けて、旅に出た。Aには5タラント、Bには2タラント、Cには1タラントを預けて。Aは預かった5タラントを元手に商売を始め、もう5タラントを儲けた。同じくBも預かった2タラントで商売をし、もう2タラントを儲けた。主人はABを激賞した。一方でC1タラントを土の中に隠し、1タラントのまま返却。主人はCの怠慢を非難して、1タラントを取り上げて追放した。

この時代の1タラントは、6000日分の給金と言われ、現在の日本通貨なら6,000万円に相当するか。つまり、最も少なく預かったCも実は相当のものを受け取っている。これだけの多額の財産を預け、早々に旅に出たこの主人は使用人たちをよっぽど信頼していたに違いない。事実、主人は使用人たちに細かな指示などは与えずに、全面的に自分の財産を任せたようだ。だから、使用人たちは自由に主人から預かったものを管理運用することができた。とはいえ、主人の使用人である以上、一つだけ忘れてはいけない大切なことがあった。それは、預かった財産をあくまで主人に喜ばれるように用いること。

同じように、私たちは神から預かった賜物を神に喜ばれるように用いたい。神と人に仕えるために用いることである。神は気前よくも私たちに多くの賜物を預けてくださった。賜物には各人に与えられた才能や能力なども含まれる。しかし、賜物が神からの『贈りもの』だとしたら、私たちの命こそが最も尊い賜物と言えよう。そして、冒頭の日野原医師の指摘のとおり、命とは私たちが持っている時間のこと。つまり、私たちの人生そのものを神と隣人のために用いるようにと私たちは招かれている。

 18世紀のユダヤのラビ(ユダヤ教の先生)であるズシュアは臨終の床で「神の前で自分のなした働きの何と乏しく、少ないことか」と嘆いたという。弟子のひとりが「神の裁きが怖しいのですか?」と問うたとき、「そうだ」と答えようとしたが、思いとどまり、次のように言った。「いいや。全能の神の前に出る時に『なぜあなたはモーセではなかったのか』とも『ダビデではなかったのか?』とも問われない。神はただ『なぜあなたはズシュアではなかったのか?』と問われるだろう」と。

人生は不公平のように見える。能力、容姿、健康、生まれ育った環境など、皆が同じではなく、人によって様々である。しかしどのような境遇にあっても、自分らしく、最善を尽くせば、神の評価は変わらない。やがて、いつの日か「よくやった。良い忠実な僕だ」とおほめの言葉を頂くであろう。

posted by take at 22:00| Comment(0) | 説教

2023年のクリスマス

12月「クリスマス」の予定

 教会の礼拝は、やっとコロナ禍の影響から少しづつ抜け出してきたようです。当初は礼拝が一切できない状況が続きました。仕方なく役員会で礼拝の説教を印刷して配布したり、いろいろと工夫をして対処してきました。途中からは、ZOOMを活用して礼拝を配信できるようになって、安心をしました。でもネット環境のないお年寄りが置き去りになっていることに心が痛みました。賛美の数もコロナの前と同じになり、聖餐式のパンと葡萄液も毎月第一聖日に行われるようになりました。でも以前とは違うのは、葡萄液がひとりひとりのパック入りに代わってしまいました。しかし前と同じ礼拝に戻れたことが、非常にうれしい。
 さて、この12月の予定をご報告いたします。

尾久キリスト教会の「12月の予定」
 12月 3日(日)アドヴェント(待降節第一聖日)
       キリストの誕生を待ち望む期間
       心静かにイエス様の誕生の意味を考えるとき!
     10日(日)午前 礼拝、
       午後 教会学校の生徒対象「荒川区民クリスマス」
     24日(日)午前 クリスマス礼拝
       午後 祝会 久しぶりにみんなで昼食をとります!
     25日(月)午後5時から6時 CDコンサート
       静かにクリスマスのCDを聞きます☆彡

       
posted by take at 21:10| Comment(0) | 日記