11/19の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所は創世記第12章10〜20節。テーマは「信頼する者の力」。
カナンの地が飢饉に喘いだため、アブラハムたち一族はエジプトに身を寄せることとした。エジプトが近づいたとき、アブラハムは妻のサライにこう言った。「あなたが美しい女だということを私はよく知っている。エジプト人があなたを見れば、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなただけを生かしておくだろう。だからあなたは、自分のことを私の妹だと言ってほしいのだ。そうすれば、あなたのお陰で私は手厚くもてなされ、命は助かるだろう。」(11〜13節)
アブラハムの予想通り、サライの美しさはエジプト中で評判となり、国王はサライを召し入れた。しかし、神はこのことの故に、王とその宮廷に恐ろしい災いを下された。結局はサライがアブラハムの妻であることは、王に知られるところとなる。王はアブラハムに詰め寄りながらも、妻サライを返し、与えた財産と共に一行をエジプトから追放した。何とも後味の悪い話である。アブラハムは願った通り、命も守られ、財産も増し加わった。しかし、エジプトの国王らの前でとんだ恥をかいたのではないだろうか。本来、『祝福の基』であるはずのアブラハムがエジプトの国に『祝福』どころか『災い』をもたらし、とんだ迷惑をかけてしまった。どうしてこんなことになったのだろうか?
アブラハムは『相手は邪悪なエジプト人だから、こちらも嘘の一つぐらいつかないことには自分を守れない』とでも思ったのだろうか。しかし、エジプトの国王らは当初アブラハムが心配したほどには邪悪な人々ではなかったよう。アブラハムに対して『サライがあなたの妻だとわかっていたら、彼女を召し入れたりはしなかった』という旨を告げている。アブラハムは自分の頭の中で不安をつくり出し、このような愚かな過ちを犯したのではないだろうか。
俗に「心配ごとの9割は起こらない」と言われる。確かに、日常生活や仕事において、『あれこれ心配したけど、結局そのことは起こらなかった』というのはよくある話し。むしろ予期せぬ問題が現れる。そうなると心配には意味がない。イザヤ書第30章15節には「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」とある。これを新改訳では「落ち着いて信頼すれば、力を得る」。この場合、もちろん誰を信頼すべきかは神であり、キリストである。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束された復活のキリストを信頼する。
しかし、もう一つ意外と大切なのは『人を信頼すること』。まわりはみんな鬼だと思っている人はどうしても自己防衛的になってしまう。自分を守ろうとするあまり、思わぬ過ちを犯すかもしれない。ノートルダム清心女子大の故・渡辺和子理事長(大ベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」著者)は「人格論」という授業の中で「人を98%信頼すること」を教えた。その理由として「人間は不完全なものであって、神ではない」。誰かを100%信頼すると、その人の僅かな過ちでもゆるせなくなる。何かあっても相手をゆるせるように、2%は取っておく…。私たちは神を100%信頼し、まわりの人を98%信頼していれば、平安である。