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2023年09月30日

10月29日午後1時「チャペルコンサート」

 教会では10月に「チャペルコンサート」を開催します。

 イベントページに「特別伝道会」が予定されていましたが、今年は中止にいたします。
 しかし、その代りに「チャペルコンサート」を開催いたします。

  日 時:10月29日(日)午後1時〜2時半
  場 所:尾久キリスト教会2階礼拝堂
  演奏者:ホワイタルウインドアンサンブル
      (都立白鷗高等学校吹奏楽部のOB/OG)
  演奏曲:アニーローリー,サウンドオブミュージック,アメイジンググレイス,・・・

 どうぞ教会に音楽を聴きに来てください。
 楽しい時間をお約束いたします。
 皆様の来場をお待ちしています。




posted by take at 16:23| Comment(0) | 日記

2023年09月23日

神は世界を諦めない

8/20 の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教の箇所は創世記第 6 18 節。テーマは「神は世界をあきらめない」。第 6 章は有名な「ノアの箱舟」を扱った箇所である。世界に人が増え広がり、人類は神の意志に背いて暴虐の限りを尽くした。そこで神はこの世界をやり直そうとされる。この続きを読んでいくとわかるように、大洪水を起こし、世界を一掃されることを計画された。堕落したこの世界にあって、ノアだけは神の目に適う人であった。神はノアに命じて、箱舟を造らせる。箱舟の中にノアとその一家を入らせ、さらに、世界の動物たちを一対ずつ乗り込ませるためである。それ以外の人類や動物たちは洪水で死に絶えるが、箱舟に入ったノア一家と動物たちは生き残る。

 「ノアの箱舟」は裁きの物語りであると考えられている。しかし、広瀬牧師は以前、ある神学生が祈祷会メッセージで「ノアの箱舟はむしろ神さまの救いについての教え」と語っているのを聞いて、感心したという。「神はこの物語を通して、ご自身の救いについて私たちに語っておられる」と神学生は強調していた。たしかに、大洪水は恐ろしい。ノアの家族と少数の動物だけを残して、後は全てを滅ぼしてしまう。人も動物もみんな大水に溺れて死んでしまう。何とショッキングなことだろう!にもかかわらず、あの神学生が語ったように、「ノアの箱舟」は救いのメッセージである。聖書のこの箇所が語ることは、神は救ってくださるお方であるということ。神の救いが描かれているのだ。

 箱の中にいっぱい入った梨のうち一個が腐っていたらどうするだろう?この場合、腐った一個を取り除かないと、他の梨が痛んでしまう。でも、箱のうちほとんどが腐っていたら、どうだろう?全てを捨てるという人も少なくないだろう。しかし、神はそうではない。たとえ、一個でもよい梨があれば、救うことを願う。エゼキエル書 33 章には「私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」(11 節)という神の言葉が書かれている。いくらかでも可能性があるならば救いたい、生かしたい。それが神の心。ノアとその家族によって、この世界が再び命で満ちあふれることを願われた。かつては「ノアの箱舟」によって、この世界を回復させてくださった神は、新約の時代、ご自身の御子イエスを世に送り、十字架の死に渡された。このお方が私たちの罪を負って死んでくださったので、信じる者は罪がゆるされ、きよめられ、滅びから救われる。神は今も私たちの救いと世界の回復を願っておられる。

posted by take at 19:48| Comment(0) | 説教

2023年09月02日

大切なのは愛すること

8/13の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所は「マルコによる福音書 第122538節」でテーマは「大切なのは愛すること」。

 律法学者に「最も大切な戒めは何か?」と問われたイエスの答えは二つ。一つは「あなたの神である主を愛しなさい」。もう一つは「隣人を自分のように愛しなさい」。神の人への愛は、人の神への愛を上回る。なぜなら神はひとり子であるイエスを犠牲にしてまで人を愛されたのだから。「ヨハネによる第一の手紙」第419節には「神がまず私たちを愛してくださった」とある。大切なのは、キリストの十字架によって現わされた神の愛をまずはしっかりと受け取ること。その上で、私たちも神の愛に応える歩みをしていきたい。それこそが、神を愛することではないか。「ローマ人への手紙」第138節でパウロは「愛は律法を全うする」と断言する。神を愛し、人を愛する者は自ずと自堕落な生活に陥ることはない。自ずときよい生活を送ろうとするだろう。

 神への愛と隣人への愛は二つで一つ。それはコインの表と裏のようなもので、両者を切り離すことはできない。私を愛しておられる神は、同じように、私の隣人(身近な人)をも愛しておられる。だから、私が隣人を愛することは、神と心を合わせることになる。『神を愛しているけれど、隣人を愛さない』ということは本来あり得ないこと。しかし、現実には、人間関係は難しい。「あの難しい人をどうやって愛することなんてできるのだろう」と私たちの誰もが悩むところ…。ここでも大切なのは、まずは神の愛に立ち返ることではないか。キリストの十字架を通して私を丸ごと愛してくださる神の愛を深く想い巡らすとき、私もまた人を愛する者へと変えられていく。

 さるご婦人はあまり自動車の運転が得意ではなかった。高速道路を走っていて、タイヤに釘が刺さってタイヤがパンクした。路肩に車を停めたものの、スペアタイヤを交換した経験がなく途方に暮れていた。そこに通りかかった車が、ご婦人の車の後ろに停車した。男の人が出て来て「パンクしました?」と言いながら、工具を出してきてタイヤを交換してくれた。婦人は「ありがとうございます。お礼をしたいのでお名前と連絡先を教えてください」。男性は「お礼はいいので、そのかわりにお願いしたいことがあります」。婦人は「なんでしょう?」。男性は「今度、あなたと同じように困っている人がいたら助けてあげて下さい」。

 神がまず私たちを愛してくださった!神の愛を受けた私たちは、その愛を隣人と分かち合うように招かれている。神が私たちによくしてくださったように、私たちも周りの人に善を行おう。

posted by take at 18:55| Comment(0) | 説教