8/6の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。今日の聖書箇所は創世記第5章の「アダムの系図」。ここにはアダムからノアに至る系図が記されている。ノアとは『ノアの箱舟』で知られている敬虔な人。それにしても、どうしても気になるのは、人々の寿命の長さであろう。「そこを気にし出すと、大切なことを見落とすので、気にしないでください」と言いたいところ。でも、これはさすがに、どうしても気になる。以下は系図に登場するそれぞれの人物の死亡時の年齢である。ただし、7のエノクだけは「神が取られたので、いなくなった」(24節)と記されている。
@ アダム〜930歳
Aセツ〜912歳
Bエノス〜905歳
C カイナン〜910歳
Dマハラレル〜895歳
Eヤレド〜962歳
F エノク〜365歳
Gメトセラ〜969歳
H レメク〜777歳
Iノア〜500歳で子供をもうける
平均寿命は900歳以上か?これについては諸説がある。
@当時は月で歳を数えた。
Aそれぞれの名前は個人名のように見えるが、実は家系名。
Bノアの大洪水以前は、地球の環境は今とはだいぶ異なり、たいへん良好であったため、人々は長寿であった。
C数字には象徴的な意味がある。
D古代メソポタミアでは偉人の年を、高年齢で記す習慣があった。等々
(記者としては、@なら納得できる…)。
上記でエノクだけが他と比較して短命である。聖書の時代、長寿は神の祝福の徴とされていた。たしかに、長生きはめでたく、幸いなことと言えよう。しかし、そうだとしたら、短命であることは不幸なのか?否、そうではない。エノクは神と共に歩んだと聖書には記されている。神はエノクをご自身のもとに召されたのである。人生で大切なのは、その一生が長かったか短かったかではない。エノクは短くとも幸いな生涯を歩んだのだ。
では、エノクのように「神と共に歩む」とはどういうことか?米国の日系人教会の牧師によれば、アメリカ と日本 のクリスチャンの違いは、アメリカなら「祈りの課題(リクエスト)はありますか?」と投げかけると、例えば、「うちの子が野球の試合に出るので活躍できるように祈って欲しい」など自由に出るという。しかし日本ではなかなか、そうはいかない。どうしてだろうか?私たちはいつの間にか生活の中で、神と共に歩む部分と、そうでない部分とを厳密に区別してはいないだろうか。例えば、教会にいるときは神と共にいるが、家庭や職場ではそうではないと。
私たちを愛される神は、生活の中で起こるどんなことでもご自身と分かち合うことを喜んでくださるに違いない。17世紀の修道士、ブラザー・ロレンスの著書「敬虔な生涯〜ふだんの生活におられる神」は多くの信仰者に読み継がれてきた。この中でローレンスは次のように記している。「私たちは何をするにも、すべてのことを主に相談する習慣を作らねばなりません、そのために、神と絶えず語り、自分の心を神に向ける努力をしなければなりません。これは、少し努力することにより、直ちに神の愛がうちに働いて何の困難もなくその習慣が身についていきます」。バスや電車を待っている時も、台所でお皿を洗う時も、どんな時でも神との対話を楽しもう。「主と共に歩む、その楽しさよ!」(新聖歌355番より)