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2017年06月10日

著作家としてのイエスさま

   信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを
   仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
              ヘブル人への手紙一二・二)

 上の句はヘブル人への手紙の中でもたいへん有名な句です。この
言葉によって、どんなに大勢のクリスチャンが励まされたり、慰め
られたりしたことか、お互いの信仰生活をふり返ってみても、ここ
ろ当たりの方が多いのではないでしょうか。
 ちょうどマラソン選手の伴走者のようなイエスさまが想い浮かば
れます。本当にイエスさまはわたしたちの信仰生活における最良の
ペースメーカーです。
 ところで、「導き手」と訳された言葉はそのあとの「完成者」と
言う言葉と対句の関係で使われていますから、厳密には「創始者」
とした方が良いかと思います。最近の新しい訳は「創造者」とか
「創始者」と訳しています。ペースメーカーとしてのイエスさまを
連想させるのは、あとに続く「仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と
いう言葉からくるのです。
  神さまが創造すると言うことと、わたしたちが何かを創造すると
言うこととは本質的な違いがあります。まずプロデュースの道具立
てからして違います。わたしたちは既に存在しているものを用い、
またそれを加工して何かを創ります。しかし、神さまは自らの「こ
とば」によってすべてを創造されたと書かれています。神の「こと
ば」は単なる意志の表現手段ではなく、創造力そのものといった性
質を持っています。
 その昔、神さまはイスラエルをエジプトの奴隷から解放しようと
指導者モーセを立てて遣わされました。その時、神さまがご自分を
「わたしは、有って有る者」また「わたしは有る」と言う者、と自
己紹介をされました。それはまさに「ことば」と「創造力」を一つ
に併せ持つ神さまの本質なのです。
 人がものを創る能力に長けているのは創造主なる神さまのイメー
ジに似せて創られているからなのです。神さまは万物創造の最後に
ご自身の愛の対象として人間を、そしてその人間との交わりを可能
にするための信仰をわたしたちに創造されました。
 長いこと英語圏で支配的であったキング・ジェームズ訳は、「導
き手」をauthor と訳しています。創造者と言う意味もありますが、
一般的には著作者とか作家という意味です。
 わたしは白い紙とペンを手にすると、なんとなく気持ちが高揚す
るのを覚えます。だれの制約も受けず、自分の思いのたけを何でも
そこに表現できる自由さを実感するからだと思います。何を書こう
かと考えている時の楽しさはなんとも言えません。
 たしかに、著作といえば創造的な業です。イエスさまはわたしの
信仰をテーマに一つの物語を書き始めました。その物語が、どうい
う筋書きで展開されていくのか、わたしたちはそのドラマの主人公
ですから分かりません。しかも、イエスさまが書き上げていく世界
はフィクションではありません。すべてノンフィクションの世界に
成るのです。だからこそイエスさまは創造者なのです。
 テレビドラマなどでよく見かけるオープニングシーンにこんな情
景があります。にぎやかな人ごみの流れが映し出され、そのドラマ
の主役がその雑踏のどこかにいるのです。はじめのうちは分からな
いのですが、カメラの目がおおぜいの群衆の中の主役に焦点をしぼ
っていきます。そしてその主役の動きを追い、やがてその主役をク
ローズアップしていくシーンです。
 なんと、その主役があなたであり、またわたしなのです。大勢の
人々の中に埋没して生きていると思っていたわたしたちを、初めか
らイエスさまが神のいのちに生きる人生ドラマの主役として描き出
しておられます。
 更には、わたしたちがその主役を演じるとき、最高の演技ができ
るようにイエスさまは演出家も兼ねていてくださいます。
 楽園喪失以後のわたしたちへの熱い思いを主は自らの著作の中に
著わし、わたしたちをして神の栄光をあらわす尊い存在として書き
上げてくださいました。
 「あなたがたの内に良い業を始められたかたが、キリスト・イエ
スの日までにそれを完成して下さるにちがいないと確信している」
(ビリビ人への手紙一・六)。創造者は同時に完成者です、
posted by take at 10:36| Comment(0) | 礼拝メッセージ

2017年06月06日

エリヤも人間です

    エリヤはわたしたちと同じ人間であったが、
   雨が降らないようにと祈りをささげたところ、
   三年六ケ月のあいだ、地上に雨がふらなかった。
            (ヤコブの手紙五・一七)

 結果が早いか遅いかさえ問わなければ、いまだかって、雨乞いの
祈りで聞かれなかった祈りはありません。地域の差はありますが、
大体は雨期や乾期のサイクルがあって、ときにこのサイクルが少し
狂ってなかなか降らない日が続いたとしても、みんなが困り果てて
祈ろうかと、言い出す頃はそろそろ降り出す条件が満たされてくる
頃なのです。
 こざかしい呪術師が無知な民衆のこころを、このような自然現象
をうまく利用して収らんしたこともあるくらいです。
 ところが、雨乞いならぬ、「雨止めの祈り」はあまり聞いたこと
がありません。テルテル坊主などの、こどもの願いを別にすれば、
だいたい祈る必要もあまりないのです。いくら気まぐれな気象現象
とは言え、雨期にでも祈ったら、ただちにインチキがバレてしまう
でしょう。
 予言者エリヤはだれも祈らないこの「雨止めの祈り」をささげて
その顕著な効果を現させていただいためずらしい人間です。ヤコブ
の手紙で、「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものであ
る」と、彼を力ある祈りをした代表的な人間として紹介しておりま
すが、あの特異な祈りが印象深かったのかも知れません。
 それからもう一つ忘れてはならないことがあります。彼の祈りは
結果としてアハブの悪政に干ばつと言う神の裁きをもたらしたわけ
ですが、同時に彼自身もこの干ばつと言う同じ状況下で生きること
の困難を強いられていたのです。神の助けがなかったら彼の逃亡生
活は続かなかったかも知れません。
 さて、ヤコブが紹介するエリヤに関する言葉の中で、わたしが特
に注意を促されることは「エリヤは、わたしたちと同じ人間であっ
た」と言うところです。この当たりまえのことがことさら表現され
たのは、エリヤが祈りのヒーローとしてクローズアップされるあま
り、祈りがだれにでも普遍的に与えられている神の祝福に与る手段
であることを忘れないようにと配慮されたのかも知れません。
 多分それもありましょう。しかし、著者はエリヤの弱い人間性を
わたしたちに想起させることによって、祈りに対する自信をわたし
たちに与えようとされている面も見逃してはならないでしょう。
 この手紙の読者は、わたしたち以上にエリヤの生涯を詳しく知っ
ておりました。カルメル山でバアルの予言者、四百五十人を相手に
たった一人で勇ましく祈り競って勝利をおさめたその勇姿も、それ
から悪魔のような残忍な王妃イゼベルに指名手配をされて、ひとり
荒野をさまよいつつ、神さまに死を求めて祈っている彼の惨めな姿
もよく知っておりました。
 人はだれでも有頂天になるような時ばかりではありません。失意
のドン底に落ち込むようなときもあります。だからこそ、彼もわた
したちと同じ人間だったのです。その彼にしてできた祈りを、わた
したちに出来ないことがありますか、わたしたちにも力ある祈りが
できますよと、ヤコブは言っているようです。
 「困ったときの神頼み」でもいいではありませんか。神さまの出
る幕は人間がギブアップした時なのですから。わたしなどは困った
とき反射的に祈りが出てこないのです。どうしょうか、ああでもな
い、こうでもないとさんざん思い煩ったあげく、ああそうだ祈るん
だったと。まだまだ未熟で情けない始末です。それでも祈ることを
思い起こさせてもらえただけでも憐れみです。そのうち、きっと事
に臨んで反射的に祈れる習性が身につくと信じております。
 全能の神さまを頂いている人間が、その神さまの御手を動かしま
つるお祈りをしないなんて、これほど勿体ない話はありません。
 もしかしたら神さまの方がわたしたちの窮状をご存じで、どうし
て素直に祈り求めて来ないのかと焦って待っていらっしゃるかも知
れません。
 祈りの壇が崩れておりましたら早いうちに繕いましょう。
posted by take at 14:57| Comment(0) | 礼拝メッセージ