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2017年05月27日

出会い、その思い出の日々

    その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て
   言った、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊・・・・」
              (ヨハネによる福音書一・二九)

 「ファースト・インプレッション」(第一印象)と言う言葉があります。人はこの最初の印象に規定された見方をします。この第一印象を変えるには余程の努力が必要です。よく言われるように鳥の世界の「刷り込み」もこのファースト・インプレッションの作用かと思われます。鳥が卵からふ化して最初に目にするものを親と思い込む習性です。
 文明の利器ワードプロセッサーは簡単にオーバーライト(上書き)出来ますが、動物や人間の頭はそう柔らかくなさそうです。先入観や食べず嫌いなどもその良い例でしょう。
 ところで、この消しがたい印象の理由は「最初の」という以外に「強烈さ」と言うこともあるでしょう。阪神大震災の惨状を体験した子供たちの中には精神的な後遺症(トラウマ)さえ心配される者もあると聞いています。
 大体、人間の頭脳構造自体、古い脳細胞のメモリーは固定されていてなかなか忘れないものらしいのですが、高齢者になるほどごく最近の新しいことはメモリー機能が低下してきて、いくらインプットしても消えてしまう傾向があるそうです。
 ある時、一人の老信徒が訴えて言うに「うちの嫁ときたら何かにつけてわたしに、婆さんは物忘れがひどいと言う。自分だって忘れるくせに・・・」と。そこでわたしは知恵を授けました。
 「もの忘れは好奇心や向学心の旺盛な証拠ですよ。例えば、ここに一升枡にすりきりのお米があるとします。なおその上に入れようとしたら、上の方を手でしゃくり出して、できた隙間に入れなければ入りません。脳の仕組みもそれと同じで、手でしゃくり出すことが忘れることなのです。しかも、しゃくり出す部分は上の方です。上の方とは最近覚えたばかりのことでしょう。下の方の古い記憶はいつまでもちゃんと残っているんです。新しい知識を覚えようとしたら、最近のことはどんどん忘れなければ、覚えられません」と。彼女は急に元気になって、「さすが先生だ。言うことが違う。こんど嫁がバカにしたら、この話してやろう」と言うのでした。
 次の週、彼女に「お嫁さんなんて言っていた」、と聞くと「何のことですか」と言うので、「例の、あの一升枡の話ですよ」と言うと、「あっ、言うのを忘れた」でした。本当にかわいいおばあちゃんでした。
 さて、ヨハネ福音書の始めの部分を読んでいると、イエスさまとの出会いに関する著者ヨハネのファースト・インプレッションの様子を大変強く感じます。冒頭の句から始まって一章の中だけでも「その翌日」と言う言葉が三度出てきます。そして二章に入ると「三日目に」と「その後」と言うくらいで、日をたどる言葉はなくなっていきます。
 わたしたちの入信事始め、すなわちイエスさまとの出会いのきっかけなども、そうだったのではないでしょうか。わたしも小学校四年生のとき日曜学校に最初に行った日のことは、今から五十数年も前のことながら鮮明に覚えています。二度目の日曜日のことも三度目の日曜日のことまではっきり覚えています。また中学二年生の改心した時のこともはっきり覚えています。
 凍てつく寒い冬の夜、集会の帰り道、家と教会とは目と鼻の百メートルも離れていない距離でしたが、その間にあった小さな池の縁に立って、ハラハラと流した涙は悔い改めと赦された喜びの涙でした。
 いろいろな「記憶」や「思い出」が長い時間の雲霧に霞んで、あるいは人間の老化の故に失われていったとしても、イエスさまとの出会いの日々だけはいつまでも鮮明に記憶に留まっています。
 伝説によれば、この書の著者ヨハネは流刑の地パトモス島で九十を越える天寿を全うしたと言われております。この福音書を著したときも彼自身がすでに高齢に達していたと言われております。それでも若き日のイエスさまとの最初の出会いの数日間を「その翌日」また「その翌日」と明確に覚えておったと言うことはファースト・インプレッションの作用もさることながら、どこまでも人を魅了してやまないイエスさまの印象深い、強烈なご人格の故とも言えるでしょう。
posted by take at 11:20| Comment(0) | 礼拝メッセージ

2017年05月13日

残りのパンくずはどうしたのでしょう

  イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないよう
    に、パンくずのあまりを集めなさい」。
                                     (ヨハネによる福音書六・五〜一四)

 ある祈祷会の席で五千人の給食のテキストをもとに短い奨励を
ました。給食のあとイエスさまの指示で集められた十二の筺のパン
くずに関して、わたしは当然のように、「このパンはあとで弟子た
ちが食べた違いありません」と軽い気持ちで言いました。
 祈祷会のあと、一人の信徒が「あれ本当に食べたんですか、くず
のパンを!」と尋ねてきました。「くずのパンを!」と強調される
と、草むらのあちらこちらに食い散らしてあるパンが想像されて、
わたしも内心余計なことを言わなければよかったと思いました。
しかし、思い直し「イエスさまが少しでもむだにならないようにと
言われているので食べたと思うのですが、ただ推測でものを言って
はいけないので、次の機会までに原典をよく調べておきましょう」
と言って、その日の集会は閉じました。
 ときどき、不意をつくような疑問や質問をされる信徒が居るとい
うことは牧師にとっては大変有り難いことです。まちがっても牧師
の面子にこだわったり、言い訳がましい理由で不勉強をかこつけて
はなりません。より広い、より深い学びへと後押しして下さる神さ
の御計らいと謙虚に受け止めるべきでしょう。
 その晩、さっそく例の五千人の給食のテキストを原典で読み直し
ました。お陰でいくつかの理解が深まりました。「くず」ではなく、
「余り」でした。しかも残り物の余りではなく未配分の「超過分」
なのです。更に、単なるパンではなくて「裂かれた」パンなので
が、それを訳出していない聖書の多いことに気がつきました。昔、
子供の頃から読み慣れていた文語訳の聖書が、「擘(さ)きたる餘り
をあつめよ」と、他の聖書より適切に訳出しています。
 さて、裂かれたパンと言えば、クリスチャンはごく自然に聖餐式
のパンを思い浮かべます。「裂かれたパン」と「ブドウ酒」とを拝受し
ながら十字架のイエスさまを思い浮かべ、それがクリスチャンの存
在根拠であり、且つその信仰が観念化しないようにと教会が大切
守ってきたサクラメントなのです。
 わたしはイエスさまの五千人の給食のテキストを読みながら、未
配分の裂かれたパンに心とらわれ、改めて自分や教会の大きな責任
を再確認いたしました
 わたしたちを本当の意味で生かすものはイエスさまの肉と血です。
わたしたちは既にこの恵みにあずかっていますが、わたしたちの周
囲にはまだまだ大勢の人がこの恵みを知らずにいます。
 未配分の裂かれたパンをわたしたちは決して無駄にしてはならず、
きちっと集めて、再配分の配慮をすることを求められているのでは
ないでしょうか。
 このような聖書の解釈を象徴的な解釈に過ぎると、指摘される方
もおありかと思いますが、ヨハネの福音書のこの後の、イエスさま
とユダヤ人たちの論争を見れば、まさに、パンの問題に関してイエ
スさまの象徴論とユダヤ人の具象論とが平行線をたどって、展開さ
れております。「象徴論」はある意味で信仰の世界のガイダンスと
して神学的にも評価されるべきものではないでしょうか。
 イエスさまの奇跡は、それによって助けられ、恵みを与えられた
者への「哀れみ」として以外に、その動機をいちいち探る必要はな
いかも知れません。従って、わたしが祈祷会の奨励の中で、集めら
れた十二の筺のパンが十二弟子の数に符合するからと、それを単純
に弟子たちの夜食に備えられたものと解釈して申し上げたわけでは
ないのです。食べ物を大切にするという生活経験のごく自然な勧め
として、そこにイエスさまの教育的意図を考える方がはるかに聖書
の読み方に夢やドラマが感じられるのではないでしょうか。
 わたしたちももっともっと啓示の御霊を仰ぎつつ、自由に想像力
を膨らませて聖書の世界をのぞかせて頂きたいものです。聖書が神
の言葉であると言っても、その書かれる過程においては、現代のわ
たしたちでも容易に想像できる、著者たちの「生活の座」があった
筈なのです。イエスさまが「無駄にならないように」と言われた
「未配分の裂かれたパン」、あなたはこれをどう読みますか。
posted by take at 16:32| Comment(0) | 礼拝メッセージ

2017年05月09日

ラザロが病んでいますよ


    姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、

       「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる

        者が病気をしています」と言わせた。

                  (ヨハネによる福音書一一・三)


 ここには、「なぜ、あなたが愛しておられる者なのに病気なんかになるのですか」と言ったラザロの病気という現実をいぶかる空気はありません。これは大変大切なことだと思います。

マリヤもマルタもまた使いの者もそれは穏やかではなかったでしょうが、こんな筈ではないのにと、病そのものの現実をいぶかってはおりません。ただ、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と伝えているだけです。もちろん医者であれば往診の願いを込めての報告ではあったでしょう。

 あり得ぬことのみある浮き世、と言う賛美歌の歌詞があります。確かにそれは、わたしたちの社会の現実です。ですから、あってはならない事ばかりある、と憂いる気持ちはよく分かります。しかし厳密に言えば、あって欲しくないことばかり起きる浮き世だ、と言っているのでして、決してある筈がないことが起こると言っているのではありません。どんなに統制された管理社会でも予想外のハプニングのない社会はありません。

 もし、「わたしたち信仰者には祝福は臨んでも災いはよけて通る」、などと都合のいいことを考えるようなおめでたい者がおれば、そんな人はこの世の現実に耐えられないかも知れません。

 一人の熱心な教会の役員さんが元旦礼拝からの帰途、自動車で追突されました。彼がその事故による後遺症で二ヶ月近く入院をしていたとき、ある婦人の信徒が「先生、どうしてあんな熱心な人があんな不幸な目に遭ったんですか」と言ってきました。

 わたしは即座に、『なぜ、あんな人があんな事に、じゃあなくて、あんな人でこそあんな事にでしょう。だって信仰がなかったらすぐにあの出来事で躓いてしまうでしょう。耐えられるほどの信仰があるから、神さまはあの試練をお与えになって、いよいよ信仰を鍛えようとされたのですよ。「持っている人はいよいよ与えられて豊かになる」というみ言葉もあるじゃありませんか』と申し上げました。しばらくは分かったような分からないような顔をしていましたが、やがてうんうんと分かった様子でした。その時、ほとんど無意識にわたしの悪い癖、ブラックジョークが口をついて出てしまいました。

 「その点、あなたは日ごろから何事もなく平穏無事でよかったですね」と言うと、彼女はこの言葉には即座に反応し「ヤダ、先生!」と、苦笑されました。

 そうです、確かにわたしたちクリスチャンにもまたそうでない人にも同じように祝福と共に災いと言う冷徹な現実があります。ただ、わたしたちクリスチャンはマリヤ、マルタのように訴える言葉、すなわち祈りを知り、また訴える対象を知っていると言うことです。たとえ、わたしたちが訴え、願った通りに応えられなかったにしても、祈った祈りそのものは必ず神さまに聞かれてはおるのです。

 マリヤ、マルタへのイエスさまの対応をご覧ください。イエスさまは初めは彼女たちの望む形では対処されまんでしたが、彼女たちが思いもよらない、桁外れの恵みをもって応えられました。

 神さまはあらゆる状況の中で、ご自分の出る幕とそのタイミングを見ておられます。それを理解しかねた彼女たちは遅れてきたイエスさまに「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と相次いで訴えました。しかし本当にイエスさまは不在だったのでしょうか。いいえ、不在だったのは彼女たちの心に信仰が不在だったのです。イエスさまの御思いはラザロの枕もとを片時も離れなかった筈です。

 最初に申し上げましたように、主がことのほか愛されておる者も病に罹ることがあります。主が愛されておる者に病はあり得ないと言うなら、それこそ御利益信仰の主張です。もしそうなら素晴らしい栄光に満ちた主の「癒しの御業」も為されないことになりましょう。

 イエスさまはわたしたちを愛する故に、また神の栄光のためにグッドよりもベターを、そしてベターよりもベストをなさるお方です。したがってその御業の方法もわたしたちの意表をつくような場合も少なくありません。訴えて静かに待つ信仰を身に付けましょう。

posted by take at 11:06| Comment(0) | 礼拝メッセージ