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2017年04月21日

まず人間を捕らえたイエスさま

    イエスがシモンに言われた。「恐れることはない。
           今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
           (ルカによる福音書五・一〜一二)


 神学校の一年生の夏、夏期ミッション生として、東洋宣教会が主宰する「福音十字軍」という天幕伝道隊に遣わされました。もう五十五、六年も昔のことです。当時、東北の宮城県下で活躍中のこの伝道隊に加わり、同級生三人と三年生の先輩一人の計四人で約二ヶ月間の思いで深い伝道実習の経験をいたしました。
 ウィークデーは毎日午前九時頃から午後四時頃までトラクト配布をし、夜は河原や空き地に張られた天幕で伝道会を開く。日曜日だけは最寄りの教会で礼拝を守り、その日曜日の午後が唯一わたしたちの自由な時間でした。
 或る日曜日の午後、天幕に近い海岸にわたしたち実習生はそろって釣りに出かけました。ところが、それをチームリーダーの若い宣教師が見とがめ、いきなりやってきて釣り竿をへし折り、「安息日に何をするか」と、さんざん絞られました。釣り竿を買って「釣りをしよう」と言い出した者はわたしではありませんでしたが一緒に行ったために共犯者となりました。
 今思えば、あの時、もしわたしにお金があったら釣り竿を買って率先して釣りを始めたのは多分わたしだったかも知れません。茨城の水郷地区で育ち、小さい時から祖父に手とり足とりで釣りを教えられたわたしは根っからの太公望でしたから。まあ、それだけに夏期伝道におけるあの釣り騒動は神学生だった若き日の懐かしい思い出となっております。
 さて、イエスさまの十二弟子の中に少なくとも最初に弟子になった四人は漁師でした。もし彼らがイエスさまと同じ大工のような職人であったら、イエスさまはあの有名な「あなたがたは人間を捕る漁師になるのだ」とは、仰らなかったでしょう。イエスさまは結構、洒落っ気もおありのようでしたから、或いは、「あなたがたは人間を建て上げる建築士になるのだ」なんて言われたかも知れません。
 ところで、興味深いことは、あのイエスさまの招きに対しためらう弟子たちの姿がなぜか描かれていません。むしろ即座の服従が不自然なくらいに淡々と描かれています。わたしが献身した時はまだ高校生でしたから家を捨て、職業を捨て、家族と別れて、などという深刻な決断を強いられる立場ではありませんでした。それでも随分迷った者です。ですから、多くを捨てる決断を強いられる場合の献身は容易ならぬものであると想像します。
 シモンとアンデレの次に、同じ漁師仲間のヨハネやヤコブもイエスさまの招きに、「すぐ舟と父とをおいてイエスに従って行った」と書いてあります。迷ったあげくなら話は分かりますが、そうでない彼らの反応を見ますと、わたしにはどうしてもこれを人間の自然の反応とは思えないのです。ですからイエスさまの招きに即座に従った彼らの信仰をわたしはそのままそう単純に過大評価はしたくないのです。むしろ弟子として招かれたイエスさまの「召命の言葉」にこそ、その辺の情況を無理なく理解できるヒントがあるような気がします。
 あの時、彼らが「何か物の怪に憑かれたように」とは言わないまでも、イエスさまの召命の言葉に抗しがたい見えない力を感じて従わざるを得なかったのではないでしょうか。
 わたしはこの文章の表題としたように、彼らがイエスさまに召されて「人間を捕る漁師」になる前に、まず「人間を捕らえたイエスさま」の姿が強く印象づけられるのですが、みなさまは如何でしょうか。
 人間をしっかり虜にしてしまうこのお方の確約のもとでわたしたちは伝道者や証し人として召されます。その時、わたしたちにこの仕事が出来るか出来ないかの確認はまったく不問のままです。いや、もしわたしたちが人間を捕らえる能力の有無を問題にされたなら誰がこの召命に応えられるでしょうか。人間を確実に虜にしてしまうイエスさまの後ろ盾がなければ伝道や証しの業はできません。
 「人間を捕らえる漁師になる」、それはただ、イエスさまに魅せられて従わざるを得ない、自分自身を真実に生きることで果たされる使命ではないでしょうか。

posted by take at 16:35| Comment(0) | 礼拝メッセージ