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2025年07月01日

「ルカによる福音書」第24章1節3〜35節「その姿が見えなくても」

2024年4月7日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。 聖書箇所は「ルカによる福音書」第24章13節〜35節、説教題は「その姿が見えなくても」。

イエスが復活した日の夕方のこと。 エルサレムでのイエスの処刑にショックを受けたふたりの弟子がエマオという村に向かって歩いている。 そこに現れたのは、復活のイエスご自身。ところが、イエスが一緒に歩いているのに、ふたりはまったく気がつかずに、その目は遮られている。弟子たちにとっては、イエスが復活されることは、思ってもみなかったこと。その不信仰の故に、目の前のイエスに気づかないのだろう。

また、復活された主のお姿は生前のそれとはやや異なっていたものと思われる。やがて、いつの日か、われわれが復活の体を頂くときも、以前とは少々違って見えるかもしれない。だけども、よく見ると確かに、お互いを認識することができる。 復活の体とはそういうものなのではないだろうか。

いずれにしても、ふたりの弟子は自分たちが希望を置いていたイエスという偉大な教師が亡くなってしまったことを嘆きつつ切々と訴えている。しかも、十字架につけられるという悲惨な最期を遂げたことを。そして、ふたりが訴えているのは、当のイエスご自身に対してである。

この箇所で23節までのイエスは、一緒に歩いて弟子たちの話しをじっくりと聴く、良きカウンセラーであった。 痛みと喪失の物語りを聴いてもらうことによって、ふたりの心は少しずつ解きほぐされたのではないだろうか。一方、24節以降のイエスは、偉大な教師である。イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」のだ。後にふたりは、旅の間、イエスは常に傍らを歩いておられたと気づく。その時「私たちの心は燃えていたではないか」と語り合う。聖書を解き明かす主の言葉に愛を感じたからこそ、弟子たちの心の内側が燃えたのであろう。 そこに何とも言えぬ暖かいものを感じたのだ。

われわれはイエスがそばにいることに 得てして気づかない。この場面でイエスが弟子たちにパンを渡したその手首に、ふたりは十字架の傷跡を見たのではないかと、ある説教者は指摘する。そして、目の前のその人がイエスであると気づいた瞬間、そのお姿は見えなくなった。 これは何を意味しているのだろう?イエスがどんな時でも共にいてくださることに気づくなら、それで十分なのである。見えるか、見えないかは、実は信仰にとってそれほど大切ではない。 もちろん、われわれは、やがて終わりの日にイエスとお会いすることを信じて、待ち望んでいる。でも、その日が来るまで、主はいつでも共にいてくださる。このことを信仰によって受け取るならば、それで十分なのである。

そして、われわれには、聖書と聖霊と教会が与えられている。教会は共に主を仰ぐ 、信仰者の共同体である。 ペテロの第一の手紙第1章8〜9 節には、「あなたがたは、 キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです」とある。この言葉に励まされながら、信仰によってこの世の旅路を歩んでいこう。

posted by take at 14:27| Comment(0) | 礼拝メッセージ

2025年04月10日

マルコによる福音書第16章1〜8節「広く大きなキリストの心」

2024年3月31日、尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。この日はイースター(復活祭)。聖書箇所はマルコによる福音書第16章1〜8節。説教題:「広く大きなキリストの心」。キリスト教会には3つのお祝いがある。クリスマス、ペンテコステ、そしてイースター。中でもイースターは、キリスト復活の記念日であるから、信仰的に最も意味のある日と言えよう。

マルコ福音書第16章では、3人の女性が安息日明けにイエスの墓に急ぐ。安息日には何の労働もできないので、その翌朝に彼女らはイエスの亡骸に香料を塗ろうとしている。当時の墓は、今と違って、洞穴に前室と後室があり、後室に遺体を火葬せずに安置。そして、直径1mくらいの大きな石を置いて洞穴を外側から塞いだ。3人の女性は「どうしたら石を取り除けるか?」と話し合いながら墓に向かった。確かに女性3人でこの石をどかして中に入るのは至難の業。 「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石がすでに転がしてあった」というのだ(4節)。しかも、墓の中には天使がいて、イエスの復活を告げられたのだ。ここで注目したいのは「目を上げて」という言葉。3人の女性たちは目を上げてみるまでは、心配していた。あの大きな石をどうしたらいいのか、誰がどかしてくれるのかと。まさかイエスが復活されているとは、夢にも思っていなかった。でも、目を上げて見たとき、全てが一変した。石は既に転がしてあった。心配したことは全く意味のないことだったと判明したのだ。

イギリスのジョン・ストット牧師の語った有名な例話がある。 (ちなみにジョン・ストットは米国のビリー・グラハム と比肩する著名な牧師である。 ) 「あなたがたの目を上げてください。皆さん方は、もちろん時代の子です。しかし同時に永遠の子でもあるのです。天の市民であって、地上ではよそ者、寄留者、…巡礼者です。ある若い人が道で5ドル紙幣を見つけました。それからというもの、歩くときには目を上げることをしなかった。長年かけて彼が収集した物は、29,415個のボタン、54,172個のピン、12セント。背中は曲がってしまい、惨めな身になった。この若者が何を失ったかを考えてみてください。彼の目はいつも溝に向けられていたので、日光の輝き、星の光、友人の微笑み、春の花を見ることができませんでした。このようなキリスト者があまりに沢山います。私たちにとって大切な勤めがあります。しかし自分がどのような存在か、自分がどこに行こうとしているかを忘れるほど、それらに心を奪われてはなりません。 」

私たちの問題は、あまりにもしばしば人間的な見方、この世的な見方にとらわれてしまうこと。下ばかりを見ていると、色々なことが気になりだす。視野が狭くなり、近視眼的になる。そんなとき、『目をあげなさい』と神の言葉は私たちに語りかける。キリストは死から復活された。父なる神は御子イエスを死人の中からよみがえらせてくださった。そして、キリストがよみがえられたということは、今も生きておられるということ。このお方は世の終わりまで私たちと共におられると約束してくださった。目を上げよう!

さて、マルコ16章に立ち返ると、天使は3人の女性にイエスからの伝言を告げる。自らの伝道の起点であるガリラヤ湖での再会をイエスは約束された。しかしその伝言には弟子たちとは別にペトロを名指ししていた。7節には「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」とある。「弟子たち」と言えばペトロも含まれるはずなのに、どうしてわざわざ名指しされたのだろう? イエスが捕らえられたとき、ペトロはイエスの予告通り、鶏が2度鳴く前に3度「イエスなどという人は知らない」と否定してしまった。イエスが復活されたとしても『どの面下げて会えようか』と煩悶するであろうペトロの心を案じてのこと。『私はあなたにも来てほしい。あなたとも会いたいのだ』というイエスの思いが込められている。つまり、ペトロはイエスを見捨てたが、イエスはペトロを見捨てていなかった。

現代のこの社会では一度過ちを犯した人は徹底的に叩かれる。 SNSの炎上などによって、匿名で多くの人がひとりの人を徹底的に打ちのめすこともあるだろう。しかし、たとえ過ちを犯しても、イエスは決して私たちを見捨てない。あくまでペトロを立ち直らせようと、「弟子たちとペトロに伝えなさい」と念を押されたように。人を見捨てず、切り捨てず、その人が悔い改めて、回復して、歩み出すのをあたたかく見守ってくださる。どんなに裏切られても、主の広く大きな愛は変わらないのである。

posted by take at 09:16| Comment(0) | 説教

2025年01月18日

ルカによる福音書第23章44〜49節「父よ、私の霊を御手に委ねます」

3月24日の広瀬邦彦先生の説教。聖書箇所はルカによる福音書第23章44〜49節。中心聖句は、46節の「父よ、私の霊を御手に委ねます」。これはイエスの受難における7つの言葉の7つ目。つまり、十字架上での、否、この世の生涯における最後の言葉といえる。ここで、これまで学んだ、7つの言葉をさらってみると、以下の通り。
@「 父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」A 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」B 「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」 「ご覧なさい。あなたの母です」C 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」D 「わたしは渇く」E 「完了した」F 「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」

淀川キリスト病院の柏木哲夫先生は、ホスピスで2千人以上を看取ってきた。先生曰く「人は生きたように死んでゆく」。その人の死に様は、生き様を表しているという。イエスはこの世を去るとき、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と祈られた。父なる神にご自身の全てをゆだねて息を引き取られた。イエスの生涯は父なる神に全てをお任せした歩みだった。イエスが最後に祈られたこの言葉は旧約聖書の詩編31篇6節から来ていると言われる。そして、この31篇はユダヤ人にとっても、初期のキリスト教徒にとっても、夕べの祈りであり、一日の営みを終えるときの祈りだったようだ。夕べもしくは夜寝る前に、「主よ、まことの神よ。私の霊を御手に委ねます」(詩編31・6)と祈ったのである。その日一日の苦労も、明日の心配も全て神にお任せして、眠りにつく。そんな毎日を過ごす人は幸いである。そういう人にとっては、もはや死は眠りとそんなに変わらないのかもしれない。その人の死に様は、その人の生き様を表すのである。

この詩篇31篇には「私の時は御手にあります」(16節)という言葉もある。人生百年時代と言われるように寿命は延びた。しかし、どんなに寿命が延びたとしても、人はいつか必ず死ぬことに変わりはない。命がその人に与えられている時間だとしたら、私たちにはどれぐらいの時間が残されているのだろう? マタイによる福音書第10章29〜31節でイエスは「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と言われる。1羽の雀さえ神のお許しなしには死ぬことはない。そうだとしたら、私たち一人一人の生涯が神の手の中に守られているのはなおさらではないかと、イエスは言われる。神は私たち一人一人のこの地上における『時』をご存じ。その時が来るまで、私たちの人生をしっかりと握ってくださり、守ってくださる。私たちの時は御手の中にあることを覚えたい。

さて「父よ、私の霊を御手に委ねます」というこの言葉は、今まさに息を引き取ろうとしている時に十字架上で語れた言葉。使徒信条で言われているように、イエスはこれから『よみ』に降ろうとされている。つまり、私たちの罪を負って死なれたこのお方は、死の苦しみをとことん味わわれようとされている。それでも、主は3日後には、父なる神がご自身を死から復活させてくださることを信じていた。たからこそ、この言葉を残すことができたのだろう。同じように、キリストにある私たちも肉体の死によって、魂は愛なる神のもとに帰ってゆくだろう。しかし、やがていつの日か、キリストの再臨と共に新しくされた世界で体のよみがえりにあずかると私たちは信じている。キリストが聖書の中で約束された通りである。『永遠の朝』を迎える、その日に望みを置きつつ、この世の旅路を歩んでいきたい。

posted by take at 23:14| Comment(0) | 説教